胡桃になった私
銀座のすなbarで鉄平さんと加奈さんにクルミドコーヒーの話を聞いて、行ってみたくなった。
西国分寺の駅は降りると少し背が縮んだような気がする。
高い建物はなく、遠くがよく見える。
高尾山にもほど近い人と街が共存する場所。
南口から歩いて3分ほど、それだけのヒントでもすぐにその店は見つかる。
これは…外観はカフェではない。
パワースポットのような、ちょっと異彩を放つ建物のデザインと雰囲気。
窓際の席にどうぞ。
友達ときたらあんなところに座れたのか、なんて思いながら(こっちはこっちで素敵だもんね)と窓際に座ってみる。
もう席について一瞬で笑顔になる。
目につくものすべてがかわいい。
人の手のあたたかさがある、すべてに理由がある。
ひとりでケーキを食べてるだけなのに嬉しくなっちゃう。
心がなんて言ってるか。声が聴こえる。
胡桃としてのくるみ。
ケーキとしてのケーキ。
りんごとしてのりんご。
ただそのためのもの。
いつのまにか意味を変えてしまったものたちへ申し訳ない気持ちになる。
カフェはいつのまにか作業場に。
本はいつのまにかマーケティングツールに。
声はいつのまにか世界をコントロールする手段に。
「こちら伝票ですのでお帰りの際お持ちください。」
いやいやお嬢さん、これはウサギですよ。それかしっぽの取れたリス。
生の胡桃なんて初めて割って食べた。
心の中がどんどん胡桃でいっぱいになる。
私ってくるまれたかったんだと知る。
窓際の席からは外に生えた木に鳥の巣箱がみえる。
誰のための巣箱なんだろう。
みんなの居場所になるためのコーヒー店。
鳥がいたから巣箱を置いたのではない、たぶん鳥に来てほしいと思って置いた巣箱、
浅煎りのコーヒーを飲んで息をつく。
息という言葉は生きから来ているのではないか。
生きるためには息が要る。
さっきの伝票を持ってレジに向かうと地下にも席があり、けっこう広いお店だったことを知る。
入店時はなんだか入りづらかったお店も、出る時は「またお待ちしております」なんて言われ、すっかりホームになる。
今度は大切な人と一緒に来よう。
最近リアルな場所の魅力に取り憑かれている。
先日のすなbarもそう。
友だちの地元に遊びに行くのもそう。
イベントづくりもそう。
オフラインはこれまでも価値があったけど、オンラインが出てきてからのオフラインはどこか風を感じる場所になったと思う。
その場にいる人たちがつくり出す熱量や体温、匂いや湿度(しつど)感。
会社や学校、商店街。
これまで不要に思われていたものが、実は意外なところで必要だったことを知る。
人というのは独りでは生きられない。
お互いに摩擦しながら体温を上げることで生き長らえているのではないか。