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「外国ルーツのこども達」と日本語教育 Part 2: 事例集
前回は外国ルーツのこども達が抱える日本語の問題を、言語の特質と表記法の観点から概観しました。要点は以下のようなものでした。
日本語の漢字仮名交じり表記法は、非常に複雑で習熟に長い時間を要する。
教科の日本語は、生徒の母語が何であれ、学校で学ばないと身につかない。
多くの外国ルーツの子ども達は、日本語の習得、教科の日本語の習得、そして教科の学習を同時に行わなければならず、過大な負担を背負っている可能性がある。
日本語教育はほとんど行われていない。
今回のPart 2では、まず私が実際に経験した事例を通し、これらがどのような事柄として現れているかをご紹介します。その後、問題解決に向けたやまどりの考える教育制度、「公立のインターナショナル・スクール」を、続編となるPart 3で提案したいと思います。
I. 事例紹介
前回の論点を踏まえた上で、外国ルーツのこども達の教育について考えてみましょう。今回は、特にやまどり学園にご縁のあるパキスタン系のこども達を例に取りあげます。代表的と考えられる事例を三つ集めました。勿論、ここで述べる事柄は、基本的にどの国にルーツを持とうとも同じです。
I.1 中学一年(15歳)で来日。日本語の学習歴なし
呼び寄せ家族の一員として、何の準備もなく突然日本にやってくるこども達がいます。年齢は保育園児から小・中学生までと、かなり幅があります。例として中学一年生(13歳)で日本にやってきた生徒のことを考えてみましょう。事前に日本語の学習歴はありません。この子は、UGが活発であったこども時代をパキスタンで過ごしていますから、ウルドゥー語が母語です。中学生という年齢からして、日本語は意識的に行う「学習」になります。パキスタンでは、英語で授業を行う学校も多いことから、英語にはそれほど不自由しない子が多く、彼もそうでした。一方、前回申しましたように、日本で社会人としてやっていけるレベルの日本語を「学習」によって身につけるのは至難の技で、少なくとも高校卒業程度の知識・運用能力が求められます。ところが、中学を卒業し高校へ進学するには、高校を受験する必要があります。入試は日本語で行われ、しかもそれはたった2年ほどでやってきてしまいます。現在日本語教師は全く足りておらず、中学には常勤の先生がまずいません。幸運にもそのような先生がいても、とても学習時間が足りず、教育の日本語を使いこなし、高校入試を突破できるまでに上達するのは不可能です。加えて、日本の学校では授業がすべて日本語で行われていて、ウルドゥー語でも英語でも授業は受けられませんから、この生徒はもう全くもって絶望的な状況に置かれてしまいます。中学校は一応受け入れてはくれますが、一体どうしたら良いか分からず、学習支援学級に入れてしまうか、教室に座ったまま一日過ごさせ、卒業させてしまうかしてしまいます。どちらにせよ、十分な日本語教育は受けられず、また教科も学習できません。このような状況の中、登校拒否になる子もいます。さらに悲劇的なことに、そもそも外国ルーツのこども達を受け入れてくれる高校は極めて少なく、大抵の高校は門前払いで、受験すらさせてくれません。四面楚歌・八方塞がりとはこの事です。
唯一残された学習方法は、遠隔でパキスタンの学校の授業を受けるか、YouTubeにある英語で行われる授業を受講することですが、体系立てて受講することが難しかったり、昼は学校に行っているので、夜十分時間が取れない、一人では長続きしない等の問題があり、決定的な打開策とはなり得ていません。
ただし、学校の対応ばかりを責めるのは酷というものでしょう。今まで日本の教育制度は、日本語が分かる日本人だけを対象として作られてきたのですから、外国ルーツのこども達を受け入れる準備が全くできていないのは当たり前です。昨今の学校は、いじめ、登校拒否、引きこもり、学習障害、モンスター・パレンツ、部活指導、学校行事への参加等、ただでさえ対応しなければならない問題・仕事が山積しており、先生方も何かしてあげたくても、時間も労力も割けないのが現実でしょう。外国ルーツのこども達の教育に関して、必要な訓練を受けた専門の先生が大量に必要なのです。
I.2 日本で生まれたこども達
日本で生まれたこども達はどうでしょうか。この子達はUGのおかげで、日本人と絶えず日本語で会話していれば、日本語が母語になります。加えて家庭で使うウルドゥー語も母語になります。つまりバイリンガルに育ちます。お父さん・お母さんが日本語がわからないので、通訳に駆り出されるのは、このようなこども達です。ではこうしたこども達は問題はないのでしょうか?とんでもありません。実は問題が山積しているのです。
前回、日本語を母語として獲得したからといって、必ずしも日本語の表記法が身につくわけではない、とお話ししました。表記法は言語を記録するために発明された人工物ですから、UGは表記法に関しては全く無関係です。つまり表記法は何語であれ「学習」によって習得するしか方法がありません。
さて、漢字は難しいので、漢字ドリル等を使って毎日繰り返し書いて読んで覚える必要があります。高校卒業までに覚えなければいけない漢字の数は、現在の指導要項に従うと2,136字になります。日本人のこどもであれば、家庭で日本語を使いますし、自分で本を読んだり、分からなければ両親が教えてくれたり、塾に通ったりして学校の中でも外でも学習を続けることができます。しかしパキスタンのこども達はそうはいきません。彼らの家庭ではウルドゥー語を使いますし、ご両親は日本語を理解しませんから、宿題として出された漢字のドリルを手伝うことはできません。加えて、こども達は週末はモスクへ通い、ウルドゥー語やアラビア語の読み書き、そしてイスラム教の勉強もしなければなりませんから、なかなか忙しいのです。こうなると、漢字の学習が極めて不十分なままになります。
パキスタン人の親目線からしますと、自分のこどもは日本人の友達と日本語で遊んでいますし、通訳もできるほどになっていますから、日本の社会・文化に上手に溶け込んでいるように見えます。さらに学校へ毎日通っていますから、成績はともかく教科も勉強できていて、何ら問題ないと思い込んでいます。こども達も、学校で友達と会って楽しく時間を過ごしているので、危機感がありません。例えば国語のテストが30点でも、ほとんど気にしないのです。
このような状況を一変させるのが、先ほどもお話しした高校入試です。多くの日本生まれの外国ルーツのこども達は、母語として日本語を使えても、上述の理由から漢字がよく読めない、書けないは普通ですし、そうなると必然的に「教科の日本語」の習得が貧弱になってしまいます。これは教科の習熟度に直結し、それも十分ではなくなってきます。とどのつまり高校入試を突破するのが極めて難しくなるわけです。親は自分のこどもが小・中学校に入れて、ちゃんと卒業できたのだから、高校も問題なくいけるだろうと思い込んでいます。ちなみにパキスタンの義務教育は11年で、日本のそれよりも長いですから、中学を卒業したら高校進学は当然と考えています。そこで突然地域で有名な進学校の名前を出して、『うちの子はあの高校へ行かせたい』などと希望を語り、先生を愕然とさせるわけです。
外国ルーツのこども達で、高校へ進学する生徒の割合は4割程度と言われていますが、この数字にさしたる根拠はなく、正確なものはわかっていません。さらに進学できたとしても、高校は単位制で、小・中学校のようにトコロテン式に卒業できませんから、高校教育まで無事終える外国ルーツのこども達の割合は、極めて低いと言うのが実情です。
このような問題を解決すべく、ボランティアの方々が中心となって、日本語の学習支援教室があちこちで開かれています。では効果はどうかというと、残念ながらまだ十分とは言えません。まず学習時間が十分確保できませんし、そうした教室は規模、教授法、先生の質等がまちまちです。また行政も組織的・継続的な支援を行なっていませんから、短期の補助金頼みの経営になってしまいます。そのために、資金的に行き詰まって閉鎖されたり、都合で突然先生がいなくなって授業が継続できなくなったりと、安定して運営することができません。学校が無くなって一番困るのは、こども達なのです。
このように、Part 1で説明した通り、日本で生まれて日本語が母語になったとしても、皆日本人のようになるだろう、と楽観的に構えることはできないのです。
I.3 大学に進学するこども達
十年ほど前からでしょうか、極めて少数ながら、外国ルーツのこども達が成長し、大学に入学してくる事例がポツポツと見られるようになりました。学年全体で一人~二人程度で、必ず毎年いるわけではありませんが、以前では考えられませんでした。しかも、学校推薦やAO入試ではなく、普通の日本人同様大学の一般入試を受けて合格しているのです(ちなみに私が教えていたのは公立の大学です)。中には大学院へ進学する学生も出てきました。こうした学生は数少ない成功例と言えるでしょう。何が違うのでしょうか?
今まで散々述べてきた問題を克服し、大学にまで進学しているのですから、私はとても彼らに興味があり、それとなく色々と尋ねてみました。その結果一つ分かったのは、彼らの保護者がとても教育熱心で、日本の教育制度をよく調べ、子どもが小さな時からずっと日本語の勉強を疎かにさせなかったということです。あるパキスタン人のケースでは、兄が大学に入った後を追って弟も入学してきました。こうした学生の保護者は、教育の重要性を十分認識しており、日本に来た時から、子供を日本の学校で成功させる目的があったのかもしれません。こうした例は、希望と勇気を与えてくれます。
しかし、子供は親を選べませんし、ここまでしてくれる親は限られています。つまり親だけに任せきりにするわけにはいかないのです。実はこのような学生でも、日本語の読み書きにはまだまだ弱いところがあり、私が聞いた学生は、日本人の友人に助けてもらいながら講義を理解していると教えてくれました。この辺りの事情はPart 1で述べた通りです。一方、子供の教育に関しては異なった見方をするパキスタン人もいて、それについては後ほどご説明します。
II. パキスタン
以上、私が経験した中から三つのパターンをご紹介しました。解決案をご紹介する前に、パキスタンについて短くご説明します。良い機会ですし、以下の議論に深く関係して来るからです。パキスタンは現在2億4千万人と、日本のちょうど倍の人口があり、現在も増え続けています。しかも国民の平均年齢は23歳(日本の平均年齢は59歳)、人口の64%が30歳以下という若い国です。国民の平均年収は$1,600(25万円弱、1US$ = ¥150換算)で、日本の平均年収520万円とは実に21倍の差があります。日本は過去30年間全くと言ってよい程経済成長しませんでしたが、それでも格差は歴然としています。しかもパキスタンでは軍部の独裁政治が長く続き、腐敗が蔓延しているだけでなく、教育環境は整っておらず治安も悪く、国民は自国の未来に絶望している状況です。このため、新天地を求めパキスタンを出てる若者が急増し、いわゆる「頭脳流出」が大きな問題になっています。
一方、私の住む富山県射水市では、パキスタン人は大きな存在感があり、独特の地位を築いています。それゆえに「イミズスタン」などと呼ばれる事があるほどです。それはなぜかというと「中古車輸出」です。富山県では(というか日本では)この分野はほぼパキスタン人が独占していて、急速に経済力をつけてきています。最近では中古車だけでなく、中古の建設機械・重機の輸出を始める人も出始めており、それら質の高い日本製品をオークションで安く仕入れ、成長著しいアジア各国を中心に、世界中に輸出して差益を得るわけです。このような彼らが共通して持っている特質があります。そもそも祖国を出て日本に機会を求めて来たわけですから、先取の気質が強く、考えに柔軟性があります。また経済・社会を世界的規模で見ていますから、変化に機敏で決断が早いです。実はこのような彼らの気質が、彼らの求める教育にも深く影響を及ぼしているのです。
III. パキスタン人から見た日本の教育
パキスタンの人達は、日本の教育をどのように見て、何を望んでいるのでしょうか。詳細な調査があるわけではありませんが、私の印象からすると、大きく二つに分かれる気がします。一つは日本の教育に同化・適応しようとする方向で、先ほど述べたように、大学へ一般入試を受けて入ってくる学生が出て来ていることが、それをよく示しています。もう一つは、日本の教育に積極的に同化・適応しようとあえてしない方向です。これら双方が日本語教育の問題を考える上で、深く関連してきます。
最初の、日本の教育に同化・適応しようとする方向はよく理解できます。一家で日本で暮らしているわけですし、これから日本を第二の祖国と考えて生きてゆくならば、なるべく日本人と日本文化を理解した上で行動する事が重要になるからです。多くの日本人も、日本に暮らす外国の方々が、このように「日本人のようになる」のを、暗黙裏に期待しているのではないでしょうか。
これに対し、異なる考え方をするパキスタン人の方々もいらっしゃいます。彼らには日本の教育に深い点で違和感があるのです。私が実際に聞いた感想を書いてみます。
『日本人はロボットのような人間を作る教育をしている。』
『苦労して息子を大学まで出したが、妙に日本人っぽくなってしまい、横並び意識が強く、新しい事にチャレンジする気概がない。』
端的にまとめると、自分で考える教育をしていないように見えるようです。
実はこのように考える人達は意外と多く、彼らと教育について話をすると、必ずと言って良いほどこのような意見が出てきます。そして、この教育に対する疑問・不安が、パキスタン人コミュニティと私達やまどり学園を繋ぐきっかけとなりました。
一口にパキスタン人と言っても、いろんな方々がいらっしゃいます。日本でカレー屋さんを開く方々や、そこで働く人達も当然いますが、パキスタンでちゃんと大学を出て日本に来た人や、中にはお医者さんまでいるのです。年収も考え方もそれに応じてかなりの幅があり、基本的に日本人と事情は変わりません。
さて、日本に家を構えて、スマホを使いこなしながら、世界を相手にビジネスを展開する人たちの立場から日本の教育を考えましょう。彼らからすると、自分のこどもが、自分で物事を考えず、人に言われたことだけをするロボットのような人になってしまったら困るのです。むしろ横並びを打破し、果敢にリスクを取りながら新しいことにチャレンジできる人間になってほしいわけです。なぜならば、彼らはそのようにして成功してきたのですから。祖国を出て日本に来て、ビジネスを成功させて来たこと自体が、何よりもそれを雄弁に物語っています。
しかしながら、彼らには一つ大きな問題があります。そのような教育をする学校が日本には無いのです。勿論、昨今では海外(特にイギリス)の有名なパブリック・スクールが日本に分校を作る、と言った動きはあちこちであります。しかし、そのような学校は授業料が飛び抜けて高く、一般家庭の姉弟を対象としてはいません。さらに教育できる生徒の数も極めて少数です。そのような学校を否定はしませんが、少数の人だけが享受できるエリート教育があるのならば、日本の学校のように、誰れもが入れる学校もある事が望ましいのです。
Part 3: 「日本の市民」を育てる: 公立のインターナショナル・スクール
に続く。