長渕剛がパンデミック三部作で歌った「死」
世界がコロナ禍に陥った時、長渕剛は、やっぱりすぐに行動を起こした。
(長渕にとっては静観は現実逃避でしかない)
妻がコロナに感染し隔離され、夫婦が離ればなれになってしまうというリアルで鮮烈なストーリーの『しゃくなげ色の空』(2020年6月9日配信リリース)というデュエット曲を発表。
突如、世界中を途轍もない不安に陥れた伝染病。
だけど我々はその現実を受け入れなくてはならない、というのが歌のテーマだった。
だからこそ、妻パートを女性歌手(AI)に歌わせ、長渕史初のデュエットという形式を取り、歌の内容と真意がリスナーや視聴者により伝わりやすいようにと、ビジュアル的にも可視化したのだろう。
とは言っても、直接的に病気を連想したり、境遇を悲観するような言葉や表現は少なく、メタファーを多用したドリーミーで幻想的な文学的な詩を、大仰な抑揚は極力抑えながらも壮麗なメロディに乗せたポップスに仕上げている。
そして第二部『アゲハチョウの子守唄』(2021年7月17日テレビ歌番組用に書き下ろし現時点未リリース)
新曲初披露、テレビ、ギター一本弾き語り。
ぼくはテレビで新曲をおろすと聞いた時、勝手な先入観から、インパクト狙いの体勢批判か、お家芸のキャッチーな応援歌だろうなと予想した。
その予想はまったく甘く、覆された。
それは、まるで讃美歌(慈しみ深く歌おうアーメン)のような、今を生きる人々を慈しみ生を畏敬するようなスケールの大きな歌だった。
テレビの前で圧倒され、兜の緒を締め直すような気持ちになった。
ただ、歌詞が長渕流散文詩だったからか、放送時のネットやツイッターで、何を歌っているのかよくわからないという感想をいくつか見かけた。
ぼくは、歌の良さや真意がリスナーや視聴者にあまり伝わっていないように感じとても残念で、勝手に歌詞を噛み砕き意訳してツイッターに載せた(作者に失礼だろバカとか、歌詞を曲解するなバカとか散々叱られた)。
せっかくなので、また載せておきます。
そう、確かにコロナは恐ろしいし得体が知れない。メディアや人の噂からの情報の精査だって難しいから不安はつのる。
でもだからって、ただ怯えて漫然と過ごしていても始まらないよ、連帯した人間の力を、生の力を信じてみようぜ、今までだって大変な時も力を合わせてなんとかしてきただろ、と長渕は伝えたかったんだと思う。
そして、第三部『REBORN』(2021年12月3日の自身のライブで初披露、2022年4月20日配信リリース)
初めて聴いた時ぼくは、REBORN、つまり、生まれ変わったつもりで戒めてまた頑張れという、ありがちな精神論、過去作品の焼き直しのような安直なポジティブソングという印象を受け、これはまぁ意欲作というよりは一旦小休止ってことなんだろうなと邪推していた。
しかし、それから何度か聴き直し歌詞を読み返すうちに、
その印象は、正反対で的外れなものだったと思い知ることとなった。
REBORN=生まれ変わる=輪廻転生=人は必ず生まれたら死ぬが、どこかでまた新しい命も誕生する。
「REBORN、人は何度でも生まれ変われるさ」とは、
地球上に毎日誕生しては亡くなっている沢山の命のサイクル、というニュアンスの「生まれ変わる」なのではないか。
つまり、心を入れ替え生まれ変わるという精神論のREBORNではなく、生物の物理的な死、命の消滅と誕生のうつりかわりを描いているのではないかと、気がついた。
いずれ自分が死ぬことは当然誰もが知ってはいるんだけれど、しっかりとリアルに、そう遠くない未来に死が訪れることを実感した、
そう、『REBORN』は、己の死を想像し覚悟した男の歌だった。
そう解釈して聴くと、どことなく不明瞭にも感じた歌の世界が一気にクリアになり整合性が取れる。
祈り(弔い)と福音(喜び)の音楽。ゴスペルのアレンジも、なるほどしっくりくる。
コロナ禍で、長渕にとっては職業や生業といった概念を超えた存在であるライブが出来なくなったことも、本年66歳というお爺さんといえる年齢も、外国での戦争とか、初孫の誕生など、いろいろと思うところもあったのだろう。
自身の死後も、長渕の歌は残り聴かれることも想像したのかもしれない。
新境地とか言うと安っぽくなるけど、この歌は、己の死を認め腹をくくり新しい命の誕生に思いを馳せたその境地にまで達していると感じる。
『しゃくなげ色の空』伝染病とか怖いけど現実を見ようぜ
『アゲハチョウの子守唄』人間の連帯を信じ命に感謝する讃美歌
『REBORN』死を受け入れ、そして生きていく
ぼくがパンデミック三部作と勝手に謳っているのは、この三曲のストーリーが繋がっているように感じたからです。
人間は、青年中年以降も、歳を重ねる毎に進化することが可能なのか?を、まるで自分の人生を使い実験しているかのようにも見える近年の長渕。
視野が拡がり寛容になり、その実験に成功していることを作品で証明してゆく長渕。
長渕剛は、自分の人生を使い果敢に実験に挑む発明家だった。