結果、長くなっただけ
毎日洗濯をしていると、これほど行為に対する結果がフェアであるものはないんじゃないかと思えてくる。行ったことに対して成果がきちんと返ってくる。洗濯は裏切らないのだ。
私は家事の中でほぼ洗濯しかできないので、かなり洗濯に肩入れした意見ではあると思う。だとしても。洗濯は洗濯機に入れさえすれば、きっちり洗いたいものを洗ってくれる。
適正な衣類の量とそれに対する適正な洗剤と柔軟剤の量さえきっちり入れさえずれば。
雑多なものとデリケートなものをきっちり分けて入れさえすれば。
色落ちものに気を付けて入れさえすれば。
形や大きさに応じた適切な干し具で干しさえすれば。
衣類と衣類の間隔を適切に確保して干しさえすれば。
しわやまくれ上がりを適度に伸ばして干しさえすれば。
ポケット付きの衣類はきっちり裏返して干しさえすれば。
日焼けによる色落ちがないよう濃い色物は特に裏返して干しさえすれば。
以上の行為は、必ず衣類たちをある一定の状態まで元通りにしてくれる。
行為に対する結果がはっきりしている。
不確実と言われる時代の中で、確実なものの存在は心の安定をもたらす。
なんだか分からないけど、洗濯は続けられる。ほかの家事はほぼ諦めたのに、洗濯はなぜかできる。これを失くしたら私にできることはなくなってしまう。私にはもう洗濯しかない。私はもしかしたら、洗濯に依存することで生き永らえているのかも知れない。
仕事に全てを捧げてきた人が定年後に衰えてしまうことがあるように、洗濯に全てを捧げた私も洗濯を失ったらおしまいかも知れない。何かに没頭することは人生に重要な要素ではあるが、依存という形を取ることは良くない。
べつに洗濯に全ては捧げていないけれど。
他に特殊な技能を持たない私が、洗濯だけは死ぬまで続けているような気がする。洗濯関連家電に興味があるわけではない。洗濯機の機能を使いこなすわけではない。ひと手間かける汚れ落としの方法に精通しているわけではない。衣類の洗濯表示タグを確認しているわけでもない。他の人類80億人と同様、ただの洗濯をする人だ。
洗濯ができる状況は有り難い。私はプロの洗濯家ではなく市中の洗濯をする人として、結果が確実に読める洗濯が毎日できることが有り難いし、その確実性で心の安定を保ち、その確実性を担保にほんのちょっとした小さな冒険も恐れずできるのだと、今思っている。
誰かが言っていた。
「挑戦」こそが「安定」だと。
変化のないことが安定と思いがちだが、ただでさえ衰退を続ける今の日本では、変化しない、すなわち同じ状況で居続けることは、そのまま衰退でしかないということである。
変化を起こす、「挑戦」をしないと、思い描く「安定」は得られない。
つまり「挑戦」こそが「安定」だということになる。
ーなんだか洗濯の話につながるかと思い引用したけれど、つながりそうでつながらなさそうだ。最近聞いてなるほどと思った、ある経営者の金言。