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誰に見られてるからとかではなく。
窓の外をふと見たら、100mほど向こうの家の玄関前で、深々と一礼して立ち去っていく人がいた。玄関のドアは閉まっていたが、スーツにビジネス鞄を提げたその男性は、しっかりと頭を下げていた。おそらくそのお宅での何らかの用事が済み、出てきて玄関前で振り返り、その家、あるいは家主に対しての一礼を施した様子であった。
家主が玄関先まで出てきて見送っている様子はなく、私から見ればスーツの男性は、ただただ住居という無機物に向かって一礼をしているだけだった。家の前から立ち去る際にはやや背中を丸め、特に暑くもない気候なのにハンカチで額を拭っているようだった。10mほど離れた先の軽自動車まで歩き、間もなく車を発進させてどこかに行った。
この男性が、どういった属性で、どういった経緯で、何の目的で家から出てきたかは分からない。しかし訪問先の主が目の前にもういないと分かっていて深々と礼をするさま。訪問先の主も、自分を訪問してきた人物を最後まで見送らないさま。そのさまにはどう見てもいびつな関係性が見え隠れした。平日午前の閑静な住宅街は、見たところ誰も歩いていない。そして周囲に撮影クルーらしき者もいない。私以外誰も見ていないし誰も撮影していない。彼は一人だ。
そして軽自動車。スーツの男性は軽自動車を近くに停めていた。路駐だったので、準備され歓迎される種類の訪問ではなく、急ごしらえの訪問だったのかも知れない。そしてその軽自動車は、どこかの社員が外回りで乗るような社用車っぽい外装ではなく、社会人になりたてのフレッシャーズがまず買うような色付きの軽だった。
どういったバックグラウンドの男性であるのか、ますます分からない。
彼のバックグラウンドがどんなものか、今後も永久に分かることはないだろう。ただ、彼は渾身の一礼をキメた。誰も見ていないのに。
私はたまたま目撃したけども、もし彼が、私がこの時間帯のこの場所からこの角度で自分の一礼を目撃することを予見していて、そのために一礼をしたのだとしたら、それは怖すぎる。「何のためにそこまで?」という怖さだ。
もちろんそんな訳は絶対にないので、彼の渾身の一礼の謎は宇宙の藻屑となって消えることと思う。
まあ、たぶん彼がただ誠実な人だからだろうけど。たぶん。