頑張ったと思えるいくつかの事
僕が自分の40年弱で頑張ったと思えることを振り返る。
高校入試
頑張った。全ては高校デビューのために頑張った。自分を誰も知らない場所にたどり着いた。いくばくか、ここで人生の風向きが変わった。ただ、頑張ったつもりだが99%は親の支援だ。自分の力は1パー。
大学入試
頑張った。加えて、自分の実力は良くも悪くもここいらが落とし所だということも分かった。やはり親の支援が大きいが、本当に頑張らないといけないシチュエーションにおいて「自分てこれだけ頑張れるんや」と良くも悪くも落とし所を知ったのは大きかった。
サークル活動
夢のために頑張ったが、センスと実力が周りの足下にも及ばないと教えてもらったことが救いだった。惰性で進む前に別の道を選ぶことができた。
それでも僕は世間を、物事を知らなさすぎて、世界の重要な事実に出くわすのに遠回りした。努力は量ではなくて方向性だということ。知らないだけで損することが山ほどあるということ。
理学療法士
10余年この道にいる。開かれた業界ではないが、医療専門職であることがいくばくの承認欲求を満たしてくれていることは確か。良く言えば誇り、矜持。悪く言えばお山の大将。職業アイデンティティだけが、他には何もない自分の慰みになる。一般社会に飛び出してもにわかに捕食されそうな、自虐と張りぼてのプライド。
量は頑張った気になれるから分かりやすい。逆説的だけど、物理的な労力は半端ないのに楽だ。でも本当に頑張った結果が付いてくるのは、方向性が正解だった時だけ。いまいち頑張ったかどうかピンと来ないけど、前に進めているのはこっちだ。量をこなして結果が付いてきた時は、たまたま量をこなした方向性が正しかったに過ぎない。結果に相関があるのは量だと解釈するのは幻想に過ぎない。方向性は裏切らない。
どんな暗い海でも北極星さえ見失わなければ目的地に辿り着ける。