エンディングノートをつける
いわゆる「終活」を語るときに「エンディングノート」が話題に上がるかと思う。自分が死ぬかどうかに限らず、何らかの事情で身辺のことができなくなる前に、事務的なことや感情的なことを書き残しておくもの。
人生折り返しに近づき、とはいえ「まだ折り返しだし、」とか思うものの、半ば義務感と興味本位とが混じりながら、ぽつぽつと書き始めた。
自分が死ぬことを考えるのは、幼少期に比べて薄まったとはいえど大人になっても怖さが伴う。しかしその「怖さ」は1.何秒かのものだ。浮かんで「ウっ…」って胸の奥が締まる感じがして、すぐに消える。
消えてから書き始めるのだけど、書く内容はほとんどが事務的なもの。戸籍や資産の状況、デジタルデータに関することから各種アカウントの情報など。ひと昔前はなかったであろうSNSやサブスクの管理については今っぽいなぁって。
「エンディング」と冠しているが要は備忘録だ。そらで思い出しながら書き付ける作業は、自分に向き合う時間であり、自分に何があって何がないか、もっと言えば、何を大事にしているかを明らかにすることかなと思う。
書き出してみると、自分にいかに有形の持ち物が少ないかが分かって誇らしかったし(僕はミニマリズム志向)、親戚付き合い・知人友人の類も、自分の「関心の輪」に十分収まるだけの数だった。「輪」の外の人たちから仮に僕へ何かの連絡があったとしても、その時に誠実に対応すればいいだけで、普段から気に留めておく必要はない。
関われない以上のモノ・人は持っていたとしても蔑ろにしがちだ。今手元にあるモノたちが逆にとても大切に思えたから、書いて良かった。
エンディングノートは一度で完成させるものではない。これから折に触れて、何度も上書きし、追記し、更新していく。
書いていて気付くのは、自分はまだやりきってないということだった。特にエンディングノートの肝と思われる「告別式」「墓」「相続」についてのページは、ほぼ空欄を残している。ここはまだ書けない。今のままでは僕は終活はできない、そんな気持ちもどこか片隅にあるんじゃないかと思う。
エンディングノートをつける作業がむしろ生きたいと思わせてくれるなんて、考えもしなかった。
おしまい