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親が何歳のときの子か

親が何歳の時の子か、ということを時々思う。

いわゆる高齢出産とは産婦が満35歳以上での出産を指すそう。
僕自身は母34歳・父36歳での子だったので、上の定義からは外れるが、周囲の同級生と比べて母の年齢は高めだったと思う。

今は30超えての結婚、35を超えての初産もめずらしくないだろうけど、親が年齢高めということで幼少期に心配だったのは、「早く死んじゃうんじゃないか」ということだった。

おかげ様で今も両親は健在だが、当時は母がよく、「おかあさんもう歳やからそんな一緒に走られへん」とか、加齢に伴う身体のディスアドバンテージを「歳やから」という一言に集約して漏らしていたことが思い出される。今考えれば、特に持病が深刻とかそういう状況じゃなくても、大人のあるある口癖として「歳だから」は理解できる。当時の母も本気で言っていたのではないと思う。しかし幼少の心理として「おかあさんは強くはない」という印象が植え付けられたようにも思う。

のちに高校の時の同級生には、うちの両親よりも年配のご両親がいることなどを知るにつけ、うちが特に高齢の親だということではないことも認識するようになった。しかし、「じゃあ、うちでこれだけ親の今後を心配したんだから、うちより年齢が上の親御さんを持つ人はどんな気持ちだろう」とか、「実際に病気の親がいたら、毎日何も心配せず楽しくテレビだけ見ている生活では少なくともないだろうな」とか、「いやもしかしたら、それはそれで『元々そんなもの』という感情の閾値が形成されていて、むしろ多くのことに動じることなくタフな精神力が育まれるのかな」とか、いろいろ思ったりした。


「逆に若い親だったら」とか、「10代の親が産んだ子はどうなんだろう」とか、親が若い方のケースは全くイメージが湧かない。ステロタイプではあるが「ヤンキーっぽいのかな」とか、今日日そんな単一の境遇だけではないだろうに、発想の貧困さを露呈する始末。



親が比較的高齢であった僕は、親の予後を心配はしたものの全く行動に結びつかず、つまり自立心(自律心)が早々に芽生えることはなく、すねかじりを続けた。そして親に酷い仕打ちを受けたとかいうことは全くないのに、なぜが捻くれた思考の持ち主に仕上がった。


わからないものだな。