きゅうりを切っていて
きゅうりの切り方は自由である。
きゅうりを切りながら考える。
きゅうりは切りやすいし、仮にどんな形に仕上がっても私レベルの調理の進捗には影響しないから、仕上がりを気にせずただただ切り進められる。要は形が小さくなれば良いのである。
切ることに集中しなくても切られるので、考え事が浮かんでは消える。
「もう尖るのはやめようかな」
周りはどう思っているか知らないしどうも思ってない可能性が98%ぐらいであるが、ここ最近の私は尖っていた方だと思う。
(…どこが?)
そう思われるかもしれないし私が尖ってようが何であろうが全然気付いてもいなかったかもしれないが、割と尖っていた方だと思う。
みんな自分のことで精一杯だから、そんなに人がどうとか気にしていない。そして逆もまた真であり、私も自分のことで精一杯だった。
私が自分のことで精一杯だったということが、私の言う「割と尖っていた方だった」ということである。
つまり他人を差し置いて自分中心に生活を送っていたため、何かにつけてドライであり淡白であり、場合によっては冷淡であり冷徹であったかもしれない。
そういった意味で私は割と尖っていた。
わざとそうしていた節もあるし、そうすることが等身大であった節もあるし、そうでもしないと自分の容量を超えてしまうことになりかねなかったから、だからそうしていた節もある。
自分の能力は過大評価してはいけない。できることは限られている。限られた中でまた能力を発揮するのが本当の意味での能力とも言える。
しかし割と尖ることを続けていて、それが等身大であるなら楽になるかもなと思っていたが、そうでもないかもなとここ数日気付き始めた。
「ちょっと人の為になることをしてみようかな」
自分の中では割と振り切って尖ったつもりだったから、揺り戻しが来たのかもしれない。私は線を引いた。いくつか試すべき方法の中で、自分が選んだ方法の端っこまできて、「ここまで。」と、線を引いた。
振り子が戻り始めている。
ちょうど良いところに落ち着かんと、空いている映画館でちょうど良い座席を探すように。
「ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、人の為になることもしてみようかな」
私の中で揺り戻しが来ている。
今なら無理せずできるかもしれない。
すぐまた戻るかもしれないけど。