朝日新聞を取り続ける両親
両親は昔から朝日新聞だ。だから僕も朝日を取るかと思いきや、今は朝日どころか地方紙も解約して新聞は取っていない。一応イデオロギーは、産経よりも朝日寄りだ。
両親は二人とも、子どものころに親が朝日だったからずっと朝日を取っていると言っている。祖父母、もしかしたら曾祖母から脈々と朝日かも知れない。
新聞は自我で選ぶよりも、だいたい世襲制であることが多い。僕調べ。どんな高齢の人と話していても、昔から取っている新聞をそのまま取り続けている人が多い様子。よっぽど野球のチケットがもらえるからとかでなければ、途中でわざわざ取っている新聞を変えることは少数派なのかな。
両親に聞いた。
「世論で叩かれることが多い朝日を取り続けているけど、心が揺らぐことはなかったのか?」って。
「べつになかった」って。
「朝日は政権寄りじゃない。朝日が叩かれているように見えるのは世論が政権寄りだから。政権寄りじゃない朝日は叩かれ(ているように見え)やすい」って。
僕は
「産経が何か失態を犯して叩かれる様をあまり見たことがないけど、朝日は何かと叩かれてる」
両親は
「産経はそういう意味で政権寄り。朝日がまっとうなことを言ってると思うから朝日を取ってる。それだけ」
周りに流されて心揺らいでしまうぐらいの軟弱な気持で朝日を取っているのではない両親だということは知っていたが、返ってきた答えはよりシンプルだった。
腑に落ちる。
多様な意見を知るために対極の新聞、左右どちらともない新聞、いくつかに目を通してある事柄についての議論の振れ幅を知るという方法はあると思う。けれど、いい悪いは別として長年取り続けるには、自分にとって一番ストレスのない新聞を選ぶのはありだと思う。
自我の形成に一役買う新聞。自我で新聞を選ぶのではなく世襲で新聞を選ぶ。新聞が結果として自我を形成する。世襲が自我を形成する。
自我ってそんなものなのかも知れない。高尚なようで高尚ではない。ゼロから自分で作り上げるものではなく、出来合いの状態から粘土を貼って継ぎ足してこしらえる、そんなもん。
知らない間に一番心地いい状態に落ち着くのが自我。多様性を受け入れる覚悟の一方で、自分が一番心地いいと思う状態は全然多様じゃなくて完全なる自分仕様。
ともあれ、やっぱり僕は朝日が心地いいのはしばらく変わらなさそう。