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体験が増えないと創作もできない

何を書こうかと思って思案し、なかったことをあたかもあったかのように書いてやろうと思ったけど、そうそう上手くいかなかった。何せ、毎日同じことの繰り返しだからだ。

友達がおらずいつも部屋にこもって空想に耽るだけの少女が、ベストセラー小説家になるドリームもあるのかも知れないが、ごく一部の特殊なケースだろう。ドキュメント要素があるにしろ完全創作にしろ、書く人たちは多くの体験や取材を重ね、題材の何かしらのヒントにしているのだろうと思う。想像だけど。

しかしよく考えれば、空想に耽るだけの少女も別に同じことの繰り返しではないかもしれない。2階の窓から外を見て、いつもの時間に家の前で手を振ってくれるあの女の子が3日ほど姿を見せていないかもしれない。家の中で唯一味方だった婆やが倒れてしまったかもしれない。部屋の隅の穴から顔を出すネズミと友達になったかもしれない。家業が行き詰まり、来月には郊外の親戚の家に立ち退かないといけないのかもしれない。出入りしていた庭師見習いの少年と恋に落ちたかもしれない。

引きこもりやニートでも、同じことの繰り返しのようでそうではない。そう考えれば、書くというのは日常の小さなことにいかに気付けるかの勝負ということになる。

そういう心づもりではこれまでもやってきたつもりだったが、どうもやはり給与労働者としては退屈な毎日の繰り返しで、でたらめを書いてやろうかと半ば自暴自棄に、舐めた態度で創作に手を付けてみた結果、2行で手が止まったのだからどうにもならない。

セレンディピティはその辺に転がっていると思っているタイプの人間ではあるが、どうも脳がびよびよに伸びきって、アンテナがインポテンツになってしまい、気付くこともできなくなっている。

やはりだ。
やはり体験、刺激を増やすしか方法はない。
今あるものに気付けないのなら、物理的に入ってくる量を増やすしかない。なんか人間の厚みが減った感じがして、さみしい現象ではあるが、仕方ない。

どんなでたらめもきっと何かの体験に紐づいている。

最近同じ部署に戻ってきた同僚がおり、心がほくほくしている。やはり人的環境の変化も貴重な刺激の1つなんだと改めて感じた次第である。

本格的に夏が始まろうとしているので、能動的に夏の体験を増やしていこうと思う。


それでは聴いてください。
Mrs.GreenAppleで
「青と夏」