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地域の行事でお笑いは難しい

芸能やメディア、その他人前に出る職業の人を広く「プロ」とした時に、それ以外の一般の人を「素人」と呼ぶ。素人がよくプロのまねごとをしたりさせられる。地域や学校行事、職場の宴会、結婚披露宴など、主催者はイベントを盛り上げるためにあの手この手の企画を考えてくれる。

主催者は大変だ。立候補したのかも知れないし、押し付けられたのかも知れない。なにせ主催者となった以上、イベントを「形」に着地させる必要がある。

これは僕の感覚だけど、「出過ぎたまね」はけっこうしんどい。主催者・演者・聴衆に、皆それぞれ同じだけの熱量があって、その企画に対して皆に一定以上の力量があれば、皆同じ思いで気持ちよく盛り上がれると思う。

しかし皆同じように盛り上がらないといけないわけではない。企画に参加する人の気持ちは十人十色であって当然だ。感想は自由だ。そして主催者・演者・聴衆が同じ熱量と一定以上の力量を等しく持ち合わせるなど、そんな条件の揃ったイベントの企画は素人にはほぼ不可能だ。

そのような素人イベントで案に挙がるのは「聴衆巻き込み型」の企画だ。一見いい企画に聞こえる。「受け身の参加者を作らない」「みんなで参加した方が盛り上がる」、そんな意見が企画会議で聞こえてきそう。そのタイプの企画では「聴衆=演者」の構図になり、聴衆に求められる力量が自ずと一気に跳ね上がる。

プロが演者のイベントではプロの力量で上手に救済してくれるから、聴衆がどんな力量の人かは関係ない。マイクが向けられた時、聴衆はある程度は何をコメントしても大丈夫だ。そこは企画段階で折り込み済みであり、主催者とプロの力量による予定調和で進むから、イベント自体が損なわれるリスクは低い。

しかし演者が特にプロではなく、例えばだけど企画会議の途中、「司会誰がやる?」「じゃんけんで負けた人でいいんじゃない?」で、負けた主催者のうちの一人(素人)が司会(演者)を務める場合は大変だ。演者の熱量も力量もそんなに高くなく、「聴衆巻き込み型の企画」はそのまま案として通過しているので聴衆のハードルは跳ね上がったまま、聴衆の熱量と力量がほぼ見込めないからだ。この時の主催者は多分だけど、起こるかどうかも分からない"笑い"を期待してるんじゃないだろうか。変な勘繰りだったら申し訳ない。でもイベント主催者というものはだいたいお笑いのフォーマットを参考にするから、この勘繰りは当たらずとも遠からずだと思っている。

「参加者がおもしろい人だったら盛り上がるね」じゃない。当日の聴衆の力量にイベントの成否を委ねるのは、ハイリスクの博打と同じだ。そういう状況で楽しめる人もいるのかも知れないけど、少なくとも僕はしんどくて仕方がない。だからこんな企画は企画時点で、失敗とまでは言わないけど多方面に不親切だなと思う。

「不確定要素があるから楽しい」という企画も確かにある。台本通りに固めた内容だけでは逆に変な感じになるのも分かる。ハプニングあってこそ面白い。しかしそれは"ハプニング以外の部分"で保険が担保されてある企画だと思う。つまり、主催者・演者・聴衆の熱量力量がそもそも一定以上高い現場であるか、求める力量を最大限に落として「お笑いのない普通のこと」を普通に進める企画であるかのどちらかだ。そこでは聴衆は「普通のこと」を言って許される。

もうこの際はばからずに言うと、笑いを取りに行ってとんでもなく滑る人がいたらどうすんねん、ということだ。変に主催者が企画会議で"笑い"を欲したばかりに、当日ハプニング的にマイクを向けられた聴衆は浮足立って大惨事に見舞われる。この聴衆はとんだとばっちりだ。企画の苦労や努力に対しては敬意を払いつつ、控えめに言って悪いのは主催者だ。そして一番厄介なのは、こんな現場では「普通のこと」を言っても滑るということだ。これは僕の肌感だけど、何か突発的なコメントをしてややウケる人がいる一方で、そもそも滑るのを回避するために普通のことを言った人が消え入りそうな拍手だけもらって肩身の狭い思いをする。さぶい。

やっぱりこれは元を辿ると主催者の非だ。図らずも企画のコンセプトにお笑いの要素を設けた時点で、"あらゆる聴衆に親切な企画"ではなくなっている。お笑いをやりたければ、素人は完全に"聴衆"に留めておいて、演者に猛者たちを揃えてきっちりとしたバラエティコンテンツを企画してくれ。

現場にいる全員が積極的に楽しむのは難しくても、嫌な思いをする参加者を生まないようにすることは、少なくとも主催者の仕事だと思う。

ちょっと熱くなった。