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理不尽を塗り薬のように擦りこんでいく

理不尽には耐えなければいけない。
社会人たるもの。
人間たるもの?

いや、人間としてどうかは置いといて、
少なくとも社会人、こと日本の社会人は、
理不尽に耐えなければいけない。


と教えられる。

教えられる?
いや、「理不尽に耐えなければいけないですよー」って教わったことはない。僕は学校で教わったことはよく覚えているほうだから、教わっていないこともよく覚えている。

「理不尽に耐えなければいけない」は、教えられていない。
しかし生育環境の中で非言語的に染み付く。
どこかのタイミングで一気に100%注入されたのか、茹でガエルのように長い時間をかけて気付かぬうちに定着したのか、それは分からない。


理不尽に対して心の中で反発し、苦笑いのマスクの裏でこぶしを握り締めているが、そのこぶしが飛び出ることはない。反対の手でそのこぶしを「よしよし」と撫でて収める。そうやって生きているのが社会人だ。

こぶしは飛び出ないが、誰か身近な人にその気持ちを分かってもらいたくて言葉にする。

するとどうだ。初めのこぶしが飛び出そうになっていた時の熱量が薄れ、なあなあにされていく感じがする。

(言葉にしたことで気持ちが整理され落ち着いた)
ということではない。そのような健全なメンタルコントロールではなく、無かったことにされていく感じがするのだ。言葉にしてそれを周りの人に聴いてもらって、普通なら安心感を得るはず。だけど理不尽に関してはなぜか当初の熱量の半分以下でしか伝わりきらず、うすーくされていく。

「まあ気持ちは分かるけどね。大変だったね」

理解はしてもらえるが理不尽に立ち向かうことはない
一緒になって理不尽をやっつけることはできない

―――話を聴いてもらった後、そんな言い知れぬ不安感が漂う。

理不尽が撲滅されることはない。
うすーく引き延ばされて、そこ有るんだけど無いことのように姿を変え、
さもありなんと体表に張り付いている。