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そん時は分からんかったけど今は分かる

小さい時に謎やった、近所の変わった人、通学路沿いの家の変わった人、駅前にいつもいる人。

何かよく分からんけど、小さい時は特になんとも思わずこんな人かなぁって思ってて、母に説明してもらった気もする。母は何事も濁さずに、子どもの僕にも正面切って何とか分かるように説明しようとしてくれる、けどその件に関しては要領を得ない。僕は特になんとも思っていなかったけど、母の説明を受けてフィルターがかかったのか、否、子ども目線ではあってもやはり一風変わった風に見えたのか、どちらか分からない、とにかく、変わった雰囲気があるなぁっていう感じはしていた。ただそれは外身だけの話で、その人たちの本質が何なのかまでは分からなかった。

でも大人になって、特に医療の専門知識を学んで、その人たちがどういう人たちなのかが分かった。

地域にはたくさんいる、精神疾患を抱える人。医療のケアを受けながら社会生活を送れている人、日常に支障を来しているが診断が付いていなくて潜在的患者となっている人、何らかの要因で通院が途絶えた人、様々。

身体障害のような外見的特徴は少ない。しかし子どもの時に見ていた近所の或る人は独特の雰囲気があり、常にぼんやり遠くを見るような表情が印象的だった。「近所の変わった人」として記憶する所以だと思う。

精神疾患といえど幅広く、皆が皆独特の雰囲気があるわけではないし、「それがあるからイコール生きづらい」と外野が判断するのは違う。注意すべきは、何らかの精神的ストレスが蓄積している状態の人(カウンセリング等によって改善可能性のある人)といわゆる精神疾患の診断を受けた人とは別ということだ。疾患は疾患として適切に対処される必要がある。いわゆるストレスを抱えた多くの人も支援を受けられずに疾患に移行する恐れがあるという点では、誰もが精神疾患を抱えるリスクはあると言える。

僕は精神疾患の専門家じゃないから、誤解を生まないよう踏み込んだ記述はやめる。何が言いたいかというと、身近に身体の問題を抱えた人が多くいるのと同じように、身近に精神の問題を抱えた人も多くいて、「結構ふつうにいてはるやん」って。

この「ふつうにいてはる」という感覚が僕には重要で新鮮。

仮に疾患・障害を持っても、地域の見守りで「ふつうに暮らせる」としたら。個人の抱える主観的問題(個別課題)が地域の客観的問題(地域課題)に昇華されることで解決できる(なかったことにされる…?)のでは。

精神疾患患者・精神障害者について、公助で解決すべき課題は多いかと愚考しますが、他方、排他的と揶揄される島国 日本で、互助は意外と息づいているのかもという話。