【小説】結氷と虚無Ⅱ
予備校へ
予備校の体験入学を申し込んだ2人は、相変わらず美術室でデッサンを描いている。
等々力西高等学校は美術に力を入れていると聞いたことはないが、美術室は充実していた。
ハッキリ決めたわけではないにしても、航と浩太は本格的に絵の勉強をする世界を垣間見た。
勉強の意味とか、将来への不安とか、心のうちにあったわだかまりを解決してくれる予感があった。
相変わらず白くてツヤツヤで、角度を変えられる机の上でカードゲームに興じる同級生たちの話し声を聞きながら、サラサラと鉛筆を動かす。
気取って画家のポーズを取るでもなく、無心に石膏像の陰影を追いかける2人。
俊栄で見た衝撃的なアトリエの光景が、脳裏をよぎる。
不安と期待が入り交じり、手に力がこもる。
「航、ちょっと画材屋さんを見て行こう」
不意に浩太が声をかけた。
「そうだな。
俺もそう思っていたんだ。
パンフレットに道具が書いてあったし、ちょっと揃えてみたくなってたんだ」
浩太は切り替えが早い。
鉛筆の高い音を聞くと、航も片付け始めた。
談笑する生徒たちの声が絶えない学校。
航と浩太は、絵を描くようになってから黙々と過ごすようになった。
表現することを探究し始めたとき、言葉が影をひそめたのだろうか。
廊下にはスマホをいじる生徒や、並んで笑い合いながら歩くカップルもいる。
窓の外にはざわめく木々と木漏れ日。
今日は晴れたいい天気だったのだ。
ほとんど屋内で過ごしたので、陽を浴びることなく暮れていく。
帰り道は影を長くする。
「俊栄に画材屋さんがあるから、行ってみようぜ」
浩太の声で我に返った。
「うん」
後戻りできない一本道を行くように、また美術の殿堂のような施設へ向かう。
多分、幸せとは程遠い世界が待ち構えているだろう。
でもやるしかない。
航はくちびるを噛みしめて、手の平を見た。
この手で何を掴むのか。
鉛筆で薄汚れているが、絵を描いて生きていこうなんて考えたことがなかった。
目指すところは、あまりにも遠く、あてもない。
告白
黒いリュックを左肩にかけ、肩ひもを手でつかむ。
颯爽と歩く2人は、わき目も振らずまっすぐに歩く。
すると、目の前に小柄な女子が現れた。
「水鳥川くん」
航の顔を射るような眼差しで見る。
一瞬たじろいだ。
「な、なんだよ」
知らない顔だった。
違うクラスだから、あまり会ったこともないはずだ。
浩太も面食らった顔で彼女の顔を見ている。
壁に寄りかかって、カバンから紙を取りだした。
「これを ───」
両手の中に、セーラー服の形に折った紙があった。
「折り紙!
へえ、こんな形できるんだ」
差しだされた折り紙を、掴もうとすると手が触れた。
女の子に目をくれもしなかった航でも、彼女が自分に向けて何か言おうとしていると直観した。
手に伝わった温もりが、上気させる。
「水鳥川くん、カッコよくなってくねって女子の中で噂なんだよ」
上目遣いにして、いたずらな目で言う。
口をキュッと結んで笑窪ができた。
「俺、先に行ってるよ」
浩太は表情を変えずに先を急いだ。
航は何と言っていいのかわからず教室を見渡した。
放課後は、人が少なくなって教室でスマホをいじっていたり、カードゲームをしていたり、ちらほらと残っているだけだった。
浩太の前で、少し恥ずかしい気持ちもあった。
横からの夕日に照らされた彼女の短い髪が赤く輝いていた。
「私、水鳥川くんのことをずっと見てたの」
彼女も教室に目をやった。
夕日のせいだけではなく、顔がほんのり赤く染まっているのがわかった。
「名前……
聞いてもいいかな」
ずっと前から知り合いだったような気分になった。
暖かい光の中で彼女の息遣いと、ほんのりした香り。
周りの風景が消え、自分と彼女だけが空に漂っているようだった。
「空風 飛鳥だよ。
隣のB組なんだけど ───
あまり会ったことなかったね」
少しがっかりした調子を感じて、あわてて言った。
「隣だから、顔を見たことはあったけど名前そ知らなかったんだ」
あたふたして、必死になっている自分がいた。
絵を描き始めてから、自己否定の毎日だった。
飛鳥はまったく違う角度から、文字通り空風のように心をくすぐった。
「お友だちになってね、航くん。
仲良しの浅川君ともお話したいな。
毎日絵を描いている人って、どんなことを考えるのか、聞いてみたいの」
一つ一つの言葉が、この世のものではないように重く響いた。
「お友達 ───
絵を描くとき考えること ───」
口を半開きにしたまま、遠くを見ていた。
考えたことが口を突いてでていた。
「あ、深刻に考えなくていいよ。
LOINでお話しよ」
航は飛鳥の方へ向き直った。
「絵を描くとき、何を考えるべきだろう。
浩太は何を考えているだろう。
ぜんぜん気にしたことがなかった。
僕は、空っぽだ。
頭が真っ白なんだ。
石膏像みたいに白くなってる」
何かを掴んだように語る航を見て、口元がふっと笑った。
「これから、どこへ行くところだったの」
はっと我に返る。
「あっ、浩太が待ってるな。
俊栄の画材屋さんへ行こうって。
一緒に来るかい」
「うん。
見てみたいな」
地平の向こう
急いで俊栄へ向かった2人。
自転車がたくさん並ぶ横に、美大合格者の氏名が貼りだされているのを見つけた。
花で飾られた下に大きく氏名を縦書きにしてある。
「こんなにたくさん、合格者出してるんだね」
「日本一とか書いてある」
ここに自分の名が貼りだされる日が来るのだろうか。
そのときどんな気分になるだろう。
暗い夜でもライトアップして、称えるように通りから見える位置で光っている。
「帝京芸術大学 ───」
左上に書かれた大学。
名前くらいは聞いたことがある。
クラシック音楽の第一人者をたくさん輩出している大学だ。
「美術もあったのか」
山を登るとき、すべての人が頂上を視野に入れる。
美大を目指す受験生が目指す地点は最終的にここになるはずだ。
「水鳥川くん!」
アトリエを案内してくれた、板倉先生だった。
「友だちを連れて来てくれたのかな」
パンフレットを飛鳥に手渡した。
「帝都芸術大学、芸大に毎年たくさん合格してるんだ。
君が興味を持ってたデザイン科の定員は50人。
そのうち10人がうちの生徒だよ。
去年は特にすごかったね」
声を聞きつけて、浩太もやってきた。
合格者の一覧を見上げながら、自分の行く末を考える。
数年後に芸大生になっているだろうか。
全国から集まった才能と鎬を削る場所なはずだが、それほど難しいことではない気分になっていた。
「浩太は、芸大を目指すのか」
「まだわからない」
「デザイン科なら私立の関東美術大学と、富士見美術大学を目指す生徒も多いよ」
言い残して板倉先生が去って行った。
「さてと。
画材屋さんが、そろそろ終わりみたいだぞ。
ちょっとだけ見て帰ろう」
3人は店じまいを始めた店内に入った。
「また買いに来ますので、少しだけ見させてください」
断ってから、店内をぐるりと見まわした。
絵の具の種類が多い。
水彩絵具を文房具屋さんで見たことがあっても、ここまでの品ぞろえはなかった。
ガラス瓶に詰まった顔料もある。
油絵具は、混ぜ方などが図に書いてある。
「すごいね。
本格的だなあ」
飛鳥は目を丸くしている。
奥には紙を裁断する大きなテーブルが見える。
隣にはギャラリーがあるし、画家が買いに来るのだろう。
鉛筆は、茶色や青、緑、赤に分けられ硬度順に束ねられていた。
種類がたくさんあるのでもう一度調べてから来よう。
航は黙り込んでいたが、頭の中に情報を叩き込んでいた。
「パンフレットで確認してから、買いに来た方が良さそうだな」
「体験入学まで日があるから、今日はこの辺にしよう」
体験入学
日曜日。
体験入学の朝、画材屋さんに立ち寄った。
貸し出しもしていると書いてあったが、デッサンに必要な鉛筆と練りゴム、カッター、羽箒だけは用意していこうと思っていた。
「この青い鉛筆で良いんだよな」
「ああ」
「浩太はどの硬さを持ってるんだい」
航は安い三菱ユニを使っていた。
商品棚に見当たらないので、今まで道具で負けていたのかもしれないと知った。
「美術室で使ってたユニの親分ならいるぞ」
浩太が示した先に、金色の帯がついたユニがあった。
ハイユニと書いてある。
「しっとりとした調子が出るのか。
意味わかるか?」
「描いてみればわかりそうだけど、高いからな」
ここはパンフレットにあったステッドラーを揃えるべきだと落ち着いた。
鉛筆が青いと、不思議な印象である。
ユニなら落ち着いた茶色だから、鉛筆らしい。
緑色の鉛筆もよく見かけるので、違和感がない。
青には冷たさを感じるし、かなり鮮やかである。
「硬さも滑らかさもほどよくて、使いやすいんだってさ」
POPのコメントに従った方が安心できそうだ。
まずは癖のない道具が良いはずである。
練りゴムはゴムの匂いが強い。
柔らかい消しゴムである。
羽箒が謎だった。
「何に使うんだろう」
「ううむ」
浩太も腕組みをして考え始めた。
どの業界でも朝は慌ただしい。
これから一日デッサンを描くのだ。
一日中絵を描いたことなどない。
大抵の高校生は、美術の時間と放課後に描けば満足する。
航もそのレベルだが、本格的に描くとなれば常識を忘れなくてはならない。
道具を抱えて外に出ると、朝の空気が冷たい。
日中は春うららといった陽気になるはずだ。
アトリエでは、石膏像の周りを囲むようにイーゼルが置かれている。
すでに道具を置いて座っている人、談笑する人などがいて賑やかだった。
入口で呆然と突っ立っていた2人に、板倉先生が声をかけた。
「やあ、水鳥川くん、浅川くん。
イーゼルと椅子が裏にあるから、持って来て場所取りをしよう」
小さいイーゼルを手に取ると、絵の具のシミがたくさんついていた。
受験生の一筆一筆が、息吹のように感じられる。
航は緊張が高まって、重苦しい気分になった。
「とにかく、残った場所を探そう」
浩太に促されてアトリエを歩きまわると、正面が割と空いている。
それではと、真正面に陣取ると道具を広げた。
峻峭
学校ではないから、チャイムが鳴るわけでもなく開始時間の9時が過ぎた。
「やばい」
航は買ったばかりのステッドラー鉛筆を取りだした。
当然削っていない。
始めから出遅れてしまった。
「どこで削れば……」
ぼんやりと周りを見渡した。
もうみんな描き始めている。
石膏像を睨みつけ、鉛筆を立てている人。
席を立って腕組みをしている人。
下を向いて目を閉じている人。
何をしているのかわからないが、すでに勝負は始まっている。
緊張感が胃袋を突き上げてきた。
「体験入学の方は、鉛筆とカッターを持って来てください」
後ろから声をかけられた。
弾かれたように立ちあがり、無造作に鉛筆を握りしめる。
カランと乾いた音を立てて1本落ちた。
ガチャガチャと鉛筆ケースの擦れる音が響く。
いつの間にか周囲は静寂が支配し始めていた。
あわてている自分が情けなくなった。
小走りに声の主に近づいていく。
「ここで削ってみて。
見よう見まねでやってみよう」
板倉先生だった。
青ポリバケツへ向けて、鉛筆の削りカスをみんなで飛ばしている。
四方を囲んで立った生徒たちは、一言も喋らずに鉛筆にカッターの刃を当てる。
美術室でいつも削っているので、ある程度は知っていた。
美術の世界では、鉛筆削りを使わない。
カッターで削り、芯を長めに出すのである。
用途によって異なるが、デッサンの場合は気の部分を3㎝ほど削り出し、芯を1㎝ほど出す。
合計4、5㎝ほども削るのである。
航は不器用な方なので、芯を何度か折ってしまった。
力加減がわからず、カッターの刃に余計な力がかかっている。
慣れていないのに焦っているから余計だった。
周りの生徒たちも似たようなものだった。
慎重に削ろうとして、少ししか削れない者。
ため息をついて手を止めている者。
浩太はすでに削り終えたようだった。
「練りゴムは、よく練ってから手でちぎって使うと良いよ」
最低限の説明を受けてそれぞれの席に戻った。
ゴツゴツに削った鉛筆の中から2Bを取りだした。
「さて、描いてみるか」
描くとなれば、美術室も俊栄も一緒である。
だんだんと周りの風景が消えていく。
淡く澄み切った空気が足元を捉え、意識が石膏像に集中していく。
見よう見まねで鉛筆を立てて石膏像にピタリと当てた。
何をしているのか理解していなかった。
だがこうすると、石膏像の大きさを客観的に見ることができる。
「これは、何ていう石膏像だろう」
髪がとぐろを巻いて何重にもうねっている。
顔の彫りが深い。
首を捻っているので首の筋がくっきり見える。
白い石膏に光が濃い影を作りだす。
サラサラと紙を刷る音が耳に心地いい。
数十人分の音が右手を後押しして、画面に向かわせるようだった。
「とにかく描かなくては」
白い紙が、まるでこれからの人生を映しているかのようだった。
冷徹な現実
「名前を呼ばれた人は、面談しますのでこちらに来てください」
静かなアトリエに声が響いた。
面談をするなんて、聞いていなかった。
というよりも、ここへ来てから予想外のことしか起こっていない。
絵を描くだけだと思っていたので、油断していた。
「勧誘かな……」
ぼそりと呟いた。
「水鳥川 航さん」
雷に打たれたように立った航は、パンフレットを左手に掴み声の方向へ小走りに近づいていく。
アトリエから出ると、別棟の講師室へ通された。
「失礼します」
鉛筆の音が消え、静かだった。
中は結構広い。
反対側は事務室になっていて、数人いるようだった。
日曜日だから人が少ないのかもしれない。
「じゃ、そこへ座って」
板倉先生に促されて、腰掛けた航は肩に力がこもっていた。
最近、家に勧誘の電話が多くなってきている。
布団とかリフォームとか。
若い女性の声で、親し気に話しかける電話も最近あった。
母親に言われて、勧誘の電話がかかってきたら、
「いらない」
と言って切るようにしている。
ぼんやりと考えていると先生が向き直った。
20歳くらいだろうか。
若いお兄さん、といった風体である。
気さくに何度か話しかけてもらったので、あまり抵抗はなかった。
緊張の原因は、お金の話になると思ったからだ。
「水鳥川くんは、将来何になりたい?」
優しいトーンで語りかけるように投げかけられた問いを理解するのに時間がかかった。
先の先まで何パターン化展開を読んでいた。
すぐにお金に結びつく勧誘ではないと判断した。
航は、この頃から考え込む癖があった。
大人しいと思われるのは、深く考えてから行動するからである。
だが、質問の答えは見つからなかった。
沈黙が空気を張りつめさせた。
肩の力がさらに強くなる。
時計のカチコチという音がやけにうるさかった。
「そうか。
ええとね……」
先生も少し困った様子だった。
身体の熱がさらに頬を紅潮させる。
耐えきれずに壁を見た。
大きなサザエの絵が貼られている。
サザエが絵になる素材だとは知らなかった。
色も形も面白い。
周りにチューリップがあって、花畑に巨大なサザエ。
普通の生活をしていたら、まず気に留めないシチュエーションである。
眺めていると、ますます深みにはまっていった。
「デザインに興味があるのかな」
言葉を選んで、答えやすいように質問を変えてくださった。
イエス、ノーで答えられるならば簡単である。
どちらかと言えばノーだ。
デザイン科に決めたのは、雰囲気があっていると思っただけだから。
でもまさか「ないです」とは言えない。
つまり、始めから答えが決まっている問いだった。
板倉先生は何もかも見通してこの問いを発したのだ。
高速回転する頭の片隅で、疑問が頭をもたげていた。
「デザインって、何でしょう ───」
口をついて出ていた。
目を閉じて顎に右手を当て、考え込むポーズを見せた。
航も視線を外し、手がかりを探し始めた。
きれいな絵がたくさん目に入ってくる。
こんな絵が描けたらいいな、と素直に思えた。
「じゃあ、講評会のときに詳しく話すから。
ちょっと考えさせてね」
日曜基礎科や夜間部、講習会のことなど俊栄のカリキュラムの説明を受けると、アトリエに戻った。
了
この物語はフィクションです