【超ショート小説】ぬりかべ
「痛てえっ」
ぶつかった衝撃で、後ろに吹っ飛んだ。
ここは七曲りと呼ばれる、曲がりくねった路地である。
江戸時代に城下町として栄えたK市は、昔の名残で道が入り組んでいる。
観光スポットが豊富な土地柄なので、行き止まりや細い路地が保存されてきたのだろう。
車両通行止めの道も多いし、迷い込んだら引き返すしかない袋小路もある。
七曲りは昔問屋街だったが、今ではさびれていた。
夕暮れどき。
だんだん薄暗くなり、人の影が消えていった。
辺りを闇が支配し始め、風が冷たい。
院瀬見 魅風は商売道具の往診カバンを置いて、一息ついていた。
冷たい地面に腰をおろして、空を見上げる。
「はあ。
どうしたもんかな」
見えない壁に阻まれている。
院瀬見は、越えられない壁を無理に超えようとしない。
一休みして、頭を冷やすことにした。
「七曲りにみえない壁があるって、本当だったんだなあ」
煙草を一服するうちに、通れるようになると言われている。
だが激務に追われる医者は、一本も吸ったことがない。
「苦しむ患者さんが待ってるんだ。
そろそろ通しくれよ。
『ぬりかべ』さんよう」
日本全国に、似たような伝承がある。
K市では、着物の帯を前で結ぶと現れなくなるといわれている。
たぬきが帯に乗って、目隠しをするから結び目が前なら乗れないわけだ。
「そうなんだろう。
俺は和服じゃないから、ぬりかべが、でたんだろうな」
もういなくなったようだ。
「今夜は、仏さんがでそうだなあ」
往診先に、発熱者が待っていた。
感染症対策のため、昼間の診察を終えた後に発熱して中程度以上の患者を診にいくのである。
患者は83歳女性。
夫が老々介護をしている家である。
「先生よう。
頼む。
治してくれよ」
やつれた顔の老爺が、さらにやつれた老婆をみてため息をついた。
「救急車を要請します。
このままじゃ危ない」
「なんだって!?
ヤバいのか。
何だこのヤブ医者め」
院瀬見は無視して救急へ連絡した。
「10分以内にきます。
私は引き渡したら失礼しますよ」
その夜、患者が搬送先の病院を探す間に、危篤状態になったと救急隊員から連絡があった。
「やはりな。
ぬりかべは、命の危険を知らせたのだ」
妖怪は現れるときに、何かメッセージを伝えようとする。
彼らは教訓のために作りだした虚像なのだ。
翌日も七曲りの先に発熱患者がいた。
「痛てえっ。
今日もかよ」
昨日に続き、また何かを知らせにきたのか。
「おい。
俺は医者だ。
いちいち命の危険を知らせなくていいから、通してくれ」
回り込もうとしても、見えない壁の切れ目がなかった。
遠回りすると迷路に迷い込む。
待った方が速い。
薄暗い中に、街灯がつき始めた。
防犯用の青いLEDである。
まるで化け物でも出そうな光だった。
少し待つと、みすぼらしい老爺がふらふらと歩いてくる。
街灯の下に入ったとき、はっきり姿を認めた。
「昨日の爺さんじゃないか」
手に持った包丁が、青白い光を反射した。
服には赤黒い飛沫がこびりついている。
「おめえ。
ヤブ医者じゃねえか……
てめえのせいで!!
登喜子の道連れにしてやる!!」
どこにこんな力が残っていたのか!
猛ダッシュで向かってきた!
そのとき。
「痛てえっ」
ひっくり返って頭を打った。
鈍い音が静寂を破り、アスファルトに赤黒いものが広がっていく。
包丁が胸に刺さっていた。
老爺の首が直角に曲がり、目玉が飛び出しそうなほど見開かれている。
「ぬりかべ……
まだいたのか」
一応警察に連絡した。
「ご老人が、持っていた包丁を腹に刺し、血まみれで倒れました。
即死です。
私は内科医の院瀬見です。
事情は後で話しますから、発熱患者の元に行きます」
老爺の目を閉じ、その場を後にした。
往診先の患者は、今日も重症だった。
「それで、ぬりかべがでたって言うんですね」
案の定、警察は怪訝な顔をした。
「他に言いようがありません。
彼は死のにおいを感じて、現れるのだと思います」
「ううむ」
「私を拘束するのはかまいませんが、仏さんが増えますよ。
たくさんの患者さんが待っていますから」
状況から、院瀬見以外に容疑者がいない。
だが、証拠もない。
聴取と現場検証の後、帰された。
「やれやれ。
ぬりかべよ。
おまえは俺を過労で殺す気か。
頼むからもう、でるな」
老爺は、苦しむ妻を刺した後、外をさまよっていた。
事件は、新聞に小さく取り上げられた。
ぬりかべは、その後も院瀬見をたびたび阻むのだった。
了
この物語はフィクションです