【小説】結氷と虚無 ── 世界が変わった 考え続けたら ──
静けさの中で
「静けさ」とは何だろうか。
宇宙の真空だろうか。
月には有名な「静かの海」がある。
模様を餅つきをするうさぎに見立てると、顔の部分らしい。
月を見て、静けさを感じるのはなぜだろう。
メモ帳に、満月を描いてみた。
月見にしようかと、酒とススキも描く。
手を止めて、頬杖を突いた。
デスクには、パソコンとスマホ。
タブレットも立てかけてある。
本棚に、まだ手を付けていない文庫本や資料の画集などが並ぶ。
隅には、実物大の人体彫刻。
一般住宅には不似合いな大きさの彫刻のせいで、随分狭く感じる。
ゲームやマンガ本には、ほとんど触れていない。
テレビも見ず、ただ机に向かう。
「月見の絵を描いて、何になるんだ!」
考えても答えが見つかりそうもなかった。
立ち上がって、軽くストレッチする。
完全にドツボに嵌っている。
外で犬がけたたましく吠える。
愛犬の「エス」が道行く人に吠えているのだ。
「散歩でもするか」
アイデアが煮詰まったときには、散歩がいい。
歩くと脳がリラックスしてアルファ波が出ると言われている。
新しい発想は、机の前では生まれない。
部屋から出ると、エスのリードを手に取った。
「ワンワンワンワンワンワン!」
嬉しさのあまり吠え続けるエス。
うるさすぎる音は、しだいに聞こえなくなっていく。
意識の外に押しやられ、今度は嬉しさのあまり回り始める。
ぐるぐるぐるぐる……
なぜこんな行動を取るのか、不可解だが「犬の飼い方」に書いてあった反応だ。
嬉しさのあまりジャンプし始めた。
足で小刻みに地面を蹴ってピョンピョン跳ねる様子に、静けさなどどこかへ行ってしまった。
「ほら!
行くぞ」
首輪にリードをつけると、エスが全力で引っ張っていく。
物凄い力だ。
体が斜めになって、こちらも全力で踏ん張る。
そして走り出した。
近くの田んぼ道に出るまで走って、ペースを緩めていく。
息を弾ませ、エスも口から舌を出して喘いでいた。
落ち着いて来ると、草むらや電柱に鼻を押し付けてにおいを嗅ぎ始めた。
航はこんなとき、考えごとに深く沈む。
水の底にいるような、澄んだ気分になった。
「なぜ『静けさ』なんて考えるんだろう……
何のために……」
始まりを求めて大抵、高校時代の光景が脳裏に浮かぶ。
倦んだ日々
3年前。
水鳥川 航は16歳だった。
中堅進学校の2年生。
そこそこ勉強して、中の上くらいの成績を保っている。
将来は何になるか。
友人の浅川 浩太と良く話した。
高校2年生の最初の席替えで、たまたま後ろの席にいた浩太は、部活の話をした。
「なあ。
俺さあ、美術部いいかなって思うんだけどさ。
一緒に入らん?」
航の顔に美術と書いてあったのか、決めつけるように聞いてきたのだ。
正直、部活には入らず学校が終わったらすぐ帰りたかった。
だが誘われてみると、目的もなく家に帰ってゲームしたりして遊んでいても時間の無駄かもしれない。
受験勉強が一段落して、将来への不安に向き合い始めたときだった。
浩太の一言が人生の転機になるなどとは思いもしなかったが。
「じゃあ、見学に行こう」
放課後、美術室へ行ってみた。
広い教室に、白い作業用の机が並べられている。
椅子は木製の箱椅子なので、普通教室とは大分違う。
絵を差し込める乾燥棚がいくつかあって、たくさん入っていた。
後ろに白い彫刻がびっしりと並べられ、その上に神様が描いたのかと思うほど上手な絵が所狭しと貼り付けられていて目を惹いた。
「高校の美術って、レベル高くね?」
航は絵が得意ではないが、興味はあった。
上手な絵を見て、心にザワつきを感じ始めていた。
「なあ。
居心地良くないか」
「同感だね。
学校とは思えない雰囲気がある」
「じゃ、顧問の先生に話してみよう」
そのまま準備室に向かう。
入口のドアが開いていて、流し台が見えていた。
お湯を沸かす電気ポットとコンロが一つ。
壁には色とりどりのシミがついている。
油絵の具の匂いが強くなってきた。
「こんにちは。
すいません。
入部希望なんですけど」
覗き込むと、不在だった。
中に入ると描きかけの絵が、イーゼルに架かっていた。
「ううん。
うまいというか、不思議な絵だな」
浩太が言うと、意味深く聞こえる。
良く笑い、ふざけ話が好きだが大人びた雰囲気を持っている。
顔立ちが整っているせいなのか、言葉に深みと威圧感がこもるときがあった。
「しっかり者」とも違う何か。
航に目をつけたのは、きっと大人しい少年だからだろう。
2年生でも同じクラスになった。
美術部の活動は緩やかで、のんびりと自分のペースで描いたり作ったりする。
顧問の相馬先生は、ときどきやって来て絵を指導してくれる。
半分遊んでいるような部活だった。
閑に描く日々
放課後の美術室には、たくさんの生徒が訪れる。
美術部員以外にも、ただ遊びに来る者。
昼寝している者。
後ろで絵をかき続ける者。
航と浩太は、イーゼルを出してデッサンを描いていた。
デッサンとは、鉛筆や木炭だけで描くスケッチである。
素描とか、ドローイングとか、クロッキーとか微妙にニュアンスの違う呼び方があるようである。
美術室に入り浸るようになると、専門用語が耳に入り覚えていった。
航はデッサンだけを描き続けている。
水彩画や油絵は準備と片付けに手間がかかる。
その点デッサンは座ってすぐに描けるし、片付けもしまうだけである。
また初めて描いた石膏像のデッサンを褒められたため、モチベーションが上っていた。
浩太の方は生まれ持った才能と言うべきか、始めから教員と先輩を唸らせる作品を描いた。
いつも隣に浩太がいて、美術室に来る生徒が口々に感嘆の声を上げている。
そして壁には神様が描いたデッサンが貼られていて、自分との差が詰まるどころか開いていく気がした。
石膏像に向き合い、鉛筆を動かし続ける。
サラサラと画用紙と擦れる音が耳に残って、頭の中に刷り込まれる気がした。
油絵と水彩画が乾燥棚に詰められ、油の匂いが漂う。
一心に対象を写し取っていると、手に鉛筆の粉がつき、手の横が銀色にテカっていた。
すっかり美術部員らしくなっていた航だが、浩太の絵に対するこだわりは、部活の範疇ではない気がした。
「浩太。
もしかして、将来美術で身を立てようなんて───」
「思ってるよ。
でもなあ、絵では食えないからなあ」
麺と向かって聞いたことがなかった。
やはり、本気だったのだ。
「なあ。
高校に入る前も描いていたのか」
高校から始めたにしては、美術に詳しかった。
そして、かなりの実力を持っていた。
「美術部ではなかったよ。
まあ、イラストを描いたりするのは好きだから」
本格的に始めたのは自分と同じらしい。
ますます、負けられない。
帰り道、浩太と自転車を並べていつもの道を進む。
手に鉛筆の粉がついたままで光っていた。
手を洗うのが面倒になって、そのまま帰ってしまうこともしばしばである。
通行人に指さして手の横の部分を示されることもあった。
「それがどうした」
心の中では思うのだが、見てビックリした顔をするのだった。
航の反応を見て、満足そうに去っていく。
「本当に、どうでもいい」
思った通りに口にすれば角が立つから適当にあしらうのだ。
相手が期待する反応をしてやれば満足する。
つまらないことだが、人間との距離感にも悩む歳だった。
「もっと自分らしく振舞いたい」
青春とは自分自身との葛藤に明け暮れる時期である。
浩太はいつも輝いている。
絵の腕前は高校生の中では突出しているし、努力を惜しまない。
いつの間にか航も、浩太と同じ夢を抱くようになっていた。
デッサンの意味
石膏像は神様や過去の偉人を象象った彫刻である。
今書いているのは「ラボルト」という首像である。
ふっくらと丸いフォルムに渦巻く髪の毛がべっとりと貼り付いている。
顔の彫が深くて、理想化された感じがする。
髪留めのようなものでまとめられているのか、髪の毛がどうなっているのだろう。
耳は作りかけのような形をしている。
頬には傷がたくさんあって、首に筋がついていたり、欠けていたりしている。
丸い台座のくびれも気になった。後からつけたのだろうが、全体のフォルムに合っていない気がする。
まさに、取ってつけたような台に首だけ乗せられている。
石膏像は白い。
白いから陰影がハッキリ捉えられる。
絵を描くときには、光と影を表現して立体感を出す。
だから石膏像で陰影の様子を学んでいくのである。
航にとっては、たまたま美術室にあった題材である。
いかにも美術の勉強をしています、という雰囲気を醸し出している。
だが、ある程度まで描けるようになってくると、何を目指していくのか見えなくなってきた。
「石膏デッサンを描いていると、芸術家になれるのかな」
素朴な疑問を投げかけてみた。
「十分条件ではないが、必要条件だろうな。
デッサンを描かなくては、美術の道が開けない気がする」
浩太の答えは明快だった。
きっといつも考えているのだ。
そこへ、相馬先生がやってくる。
「浅川。
美術系大学のことだがな。
まずは『俊栄』へ行ってみたらどうだ」
俊栄とは何だろう。
浩太は相馬先生に相談していたようだ。
「美術の仕事もいろいろあるし、大学へ行くとなれば実技試験もある。
詳しいことは予備校へ行けばわかるぞ」
「近くにある『俊栄美術研究所』ですね。
大学受験のための画塾だとか」
「そうだよ。
私もな、俊栄出身なんだ。
親切に面倒見てくれるぞ」
浩太はデッサンの実力があるから、相馬先生に認められたのだろう。
興味はあったが、自分に話を振られないことが悔しかった。
「なあ、航も一緒に見にいこうぜ」
「えっ、今から?」
浩太は鉛筆を片付け始めた。
木の乾いた音が響き、パタンと筆入れが閉められる。
「そうだよ。
いいだろ」
当たり前だ、という顔つきで言われて少し救われた。
自分から一緒に行きたいと言いだすのは、少々プライドが傷つくからだ。
「まあ、行ってみるか」
もったいつけて言うが、内心は期待が膨らんでいた。
美術の世界
自転車で等々力駅前にやってくると、辺りは薄暗かった。
会社帰りのサラリーマンが談笑しながら歩道を歩く。
往来をタクシーや自家用車が走り、駅のアナウンスが聞こえる。
飲食店の喧騒、チラシ配り、店の客引きなどで賑やかだった。
駅前の路地を入ったところに、俊栄美術研究所はあった。
路地裏は静かである。
ときどき忙しそうに歩く人の足跡が響く。
「聞いたことはあったけど、来たのは初めてだよ。
思ったより大きいんだな」
美術研究所というものに、気を留めたことはなかった。
何度か話を聞いて知っていた程度である。
将来の仕事にクリエイティブ系を選ぶなら、一度は来てみるべきだった。
浩太に先を越された気分が強くなっていた。
「自転車がたくさんあるな」
生徒の物と思われる自転車が数十台、びっしりと並んでいた。
脇をすり抜けるようにして中へ入る。
見学希望であることを伝えると、快く迎えてくれた。
「等々力西の生徒さんだね。
相馬先生から聞いているよ。
それじゃあ、案内しますね」
板倉さんという先生が呼ばれて、窓口にやってきた。
受付で氏名、住所などを書いて、パンフレットを受け取った。
表紙には、神様が描いたようなデッサン。
美術室に貼ってあるものより上手いかもしれない。
「とんでもないところへ来てしまった」
呆然として、壁に貼られた作品を眺めていた。
まず、油絵科、日本画科のアトリエを見学した。
部屋の広さに驚いた。
中には所狭しとイーゼルが並んでいて、油絵や水彩画を描いている。
どの作品も、とてつもなく上手い。
場違いなところへ来てしまったのかもしれない。
航も油絵を描いたことがあったが、まったく比較にならなかった。
薄く色を塗って終わりにしていた自分の作品は、途中のままだし完成という概念が間違っている。
塗り絵のように、白い部分がなくなれば終わりだと思っていた。
俊栄の生徒たちは、入念に塗り重ねて何度も試行錯誤している。
だから画面に深みがあった。
航は元々美術が大好きだったわけではない。
絵画と正面から向き合ったこともなかった。
美術館へ行っても、有名な絵画を話のタネに見にいくだけだった。
絵を理解していないし、しようともしなかった。
あまりにも世界が違い過ぎて、自分のような半端な人間がいることが申し訳なかった。
浩太は、目を爛々と輝かせて、楽しんでいるように見えた。
板倉先生に熱心に質問している。
自分との差を感じて、ため息が出そうだった。
デザインとの出会い
芸術とは無縁の生活をしてきた航は、打ちひしがれた。
足取りは重く、息苦しい。
ウサギやニワトリを外で見たときにだけ、心が和んだ。
「モチーフにするために飼っているんだよ」
生きた動物を描くこともあるのだ。
あらゆるものが、美術のためにある施設だった。
石膏像もあちこちの棚にぎっしり並んでいる。
最後は、デザイン科に案内された。
3つの科の中で最も大きなアトリエである。
「デザインって人気あるんですね」
「グラフィック、プロダクト、インテリア、ファッションとかいろいろなことをやるからね。
幅広くて、いろんな人が集まっているよ」
3階建ての建物だった。
アトリエの引き戸を開けると、これまでと違う雰囲気を感じた。
白い壁。
きちんと整理された棚。
長机に整然と並んだ生徒が、バケツで筆をといて絵の具を塗っている。
「これね、平面構成って言うんだ。
近くで見てごらん」
板倉先生に続いて、浩太と航が入る。
余計な物がない。
スケッチブックと絵の具、筆、バケツ、絵の具皿。
皆似通った道具をきれいに使っていた。
芸術家のイメージとは違う。
道具の配置、生徒の動きを見ているだけで、直観するものがあった。
洗練され、考え抜いた画面。
自由な自己表現とは異なるのがわかった。
自分の肌に合う。
そして、これをやるべきだ。
今日航は、浩太と共にデザインの世界に一歩踏み出した。
とてつもなく長い道のりになるが、頂点を目指して一度も振り返らずに登りきる山の麓だった。
「一日体験入学があるんだけど、参加してみてはどうかな」
板倉先生がパンフレットに挟んであるチラシを取りだした。
日曜日に予備校生と一緒にデッサンを描くようである。
デッサンには少し自信があった。
相馬先生意外にきちんと指導を受けたことがなかったので、専門家が自分の作品にどんな指導をしてくださるのか興味もあった。
「申し込んでいこうか。
試しにここで描いてみようぜ」
浩太はやる気満々である。
「ああ。
試しにな」
体験して、自分の悩みの答えが見つかるかもしれない。
将来への不安。
無力感。
勉強しかしてこなかった自分。
いや。
多くの高校生が、自分と大差ないだろう。
だが浩太は絵の才能がある。
航には、浩太に対する劣等感があった。
そして、絶対越えたいという灼熱の心も内に秘めていた。
了
この物語はフィクションです