司書講習の思い出

 大学生の頃、死にたいと思っていた。今でも思っているのかもしれない。

 私は…「私」なんて言っていいのだろうか…私は、図書館の司書講習を受けていた。大学四年だった。司書講習は夏の一ヶ月で集中的に行われた。週6日出なければならず、片道は一時間半であり、体力がない私にはきつかった。


 基本的には「誰でも受かる」講習に私は落ちた。落ちた理由は、気乗りがしなかったというのが一番の理由だろう。私は授業を聞いていて、狭い世界に閉じこもっているにもかかわらず、あたかも世界全体が自分達の「知」の傘の下に入っているかのように勘違いしている大学講師の講義に内心、腹を立てていた。彼らは自信満々に話していたが、彼らは極めて乏しい世界の、小さな細目を覚えているに過ぎなかった。しかし、それに違和感を覚える事がなかったからこそ、彼らはああしたポジションをまっとうできるのだろう。


 司書講習が行われたのは、埼玉のある大学だった。駅から二十分も歩かなければならず、道中は暑かった。途中、竹林の横を通り抜ける狭い路地があり、その道だけが涼やかだったのを昨日の事のように思い出す。


 司書講習で私は孤独だった。孤独は私自身が選び取ったもので、私以外の人間には全く責任はない。私は、空っぽな若造のくせにむやみにプライドが高く、自分は人と違うと思っていた。思い上がった人間だったわけだが、今でもそう変わっていないのだろう。


 大学構内には、草が生えている箇所がところどころあって、風が吹いて、草がなびくと、心地よく感じた。私は短い休み時間、教室を嫌って外に出て、草の上のベンチに座り、ただ一人夏を感じていた。


 恐ろしく暑い夏だった。私は、私自身の焼け付くような自意識と共に、あの光景を思い出す。


 おそらく、人はこんな思い出話を聞かされて、(それが何の意味があるのだろう?)と問う事だろう。意味に取り憑かれた人々は、全てが過去の思い出に変わっていくのを知らない。人が死ぬ前に思い出すのは、自らの思い出以外にはない。


 私はその頃、死にたいと思っていた。いや、正確には、陽光を跳ね返す草を見ながら、(このまま溶け去って、大地そのものになれればなあ)と思っていた。存在が溶解して、世界と一致してしまえば楽なのに、とずっと思っていた。


 司書講習の一ヶ月は私には地獄だった。試験に落ちたと知って、妙にホッとした私もいた。


 その期間、死にたいと思っていた私はiPodを手放さなかった。iPodにレッド・ツェッペリンの「How The West Was Won」というライブアルバムが入っていて、そればかり聴いていた。


 お気に入りは「天国への階段」のソロパートで、ジョン・ボーナムとジミー・ペイジのギターのうねりが好きだった。その爆音、音の塊とでもいう現象を聴いている時だけ、私は自分の心の痛みがわずかに安らぐのを感じた。


 これはその後も変わっていない。私は文学を至上のものだと思いたい人間だが、一番辛い時に、私を支えたのは文学ではなく、音楽だった。これは、偽るわけにはいかない。


 私は辛かった。わけもなく辛かった。多分、生きている事、存在している事それ自体が辛かったのだろう。私は自分が何者になれるとも知らず、また何者でもない自分を感じ取っており、世界のどこにも自分の居場所がないだろう事を既に予感していた。


 私は魂の所在というものを知っている、と言えば、人は笑うだろう。それは、空間の中にあるものではない。それは「私」の中にあるものだ。だが人は私を「あれ、それ、これ」といった空間的な所在の中に見つけてしまうだろう。だから、人が本当に言いたい事、人が本当に言わねばならぬ事というのは結局は他人には伝わらないものなのだ。


 私は絶えず、レッド・ツェッペリンの爆音を聴いていた。それが唯一、心の慰めだった。それだけが私の心の在り方に呼応した存在だった。私にとっての唯一の他者だった。


 司書講習で通った大学は田舎の大学で、荒れ果てた草地に、錆びたサッカーゴールがぽつんと立っていた。生徒達は見えなかった。私は一人でベンチに座りながら、イヤホンを耳に突っ込んでぼうっとしていた。


 一ヶ月の講習が終わる頃、ある講師が私に対して次のように言った。私は唯一、その講師に好感を抱いていた。


 「君は、傲慢だね」


 その講師は私の肩にポンと手を置いて、言った。彼は、そのまま行ってしまった。それは講習の最終日で、講師も生徒もやっと全てが終わった事にホッとして、それぞれに雑談をしていた。そう言われて、私はショックだったが、何か腑に落ちる気持ちがしたのも確かだった。


 帰りの電車…講習から帰る際に乗る電車の事も覚えている。川越か、本川越に向かう路線だった。列車の一番先頭に立っていると、周囲の風景が田園から都市に変わるのをリアルに感じられた。田園地帯を過ぎると、遠くに見えている都市の「塊」に列車は近づき、気づけばまわりの風景は一変している。さっきまでののどかな緑の風景は一変していた。私はその光景が好きで、帰り際には、子供のようにいつも電車の先頭車両に乗っていた。


 そんなこんながあって、一ヶ月の辛い時期は終わった。一ヶ月が終わると、私は精神的にも肉体的も無理をしていたのだろう、熱を出して寝込んでしまった。一週間ぐらい寝込んで、回復した。私は、自分が地獄から抜け出したと思った。


 …もちろん、司書講習ごときを「地獄」だと言うのは、いかにも生ぬるい事なのだろう。ただ、私という存在にとってはそれが一つの地獄と感じられた。


 恐ろしい事だが、あの頃から十年以上の歳月が流れているにも関わらず、私は全く成長しておらず、夏の草地を見ると、大地に溶け出してしまいたい欲求を未だに覚える。私は自分の存在という重荷に疲れている。相変わらず、レッド・ツェッペリンの曲を聞き続けている。私にとって、あの一ヶ月に感じた光景は、今も極めてリアルなものに感じられる。私が死ぬという事はきっと、あの光景のリアルさが消失する事を意味するのだろう。それは夏の陽光を受けて、今でもギラギラと光っている気がする。


 そうして年を取った私が何か辛い目、苦しい目に遭遇すると、気づけばあの真夏の空間に佇んでいる。田舎の大学の草地の中にベンチが一つ置いてある。草が風になびいている。遠くには錆びたゴールが立っている。まるで悠久の昔からそこにあったように。あの場所、あの夏は、私の中で未だに続いている。おそらく、敗戦を経験した多くの人も、ギラギラとした「あの夏」の中を繰り返し生き続けるのだろう。かすれた玉音放送を聞いたあの夏を。敗北の夏を。


 無論、私のは私固有の夏に過ぎない。私の夏はただ私だけの中にあり、それは他人に語れるようなものではない。このような文章もまた、他人には何も伝えないだろう。


 それでも、私はあの夏を思い出す。あの夏、あの風景の中に、私は多くのものを取り落としてきたような気がする。そしてそれを拾い上げる事はこの先もきっと、永遠にできないだろう。私はただジミー・ペイジのギターのうねりを聴く。まるで二十二歳の大学生のように。あの時から時は止まって、私は一歩も動いていない。ただ頭の中で音楽が鳴って、それだけが、私の周囲の「時」が進行している事を伝えている。



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