主体の消失について

 ウエルベックの『闘争領域の拡大』を読んでいたら「色々な人がいたが、みんな何かを買う事によって自分を取り戻そうとしているのは同じだった」というような文章があって、印象に残りました。以下、そこから着想した事を簡単に書いておきます。

 まず、私が「糞リアリズム」と勝手に呼んでいる一連の現象について考えてみます。これは純文学・芥川賞なんかによくあるタイプですが、生活の表面をリアリズムでなぞっているので、リアリズムはリアリズムですが、面白くともなんともない(中身のない)小説を「糞リアリズム」と私は勝手に呼んでいます。

 それでこうした作家は、それだけでは味気ないのを感じているので、文体をひねったり、方言を入れたり、要するに賞を取る為に色々な努力を凝らしていますが、それらは枝葉末節的努力で、レベルの「高い」選考委員あたりにしか通じないものだったりします。まあ、それに関してはどうでもいいので置いておきます。

 さて、それでこの「糞リアリズム」は、現代の事実を描いているので、その描く対象というのは現代の我々なわけです。我々の生活なわけです。しかし、これが面白くない。描き方に問題があるのか、対象に問題があるのか。おそらく、両方でしょうが、この事が以前から気にかかっていました。

 こうしたリアリズム小説で取り扱われるのは我々の生活です。我々の生活? …例えば公務員試験を受けている青年とか、彼氏の奇行に悩んでいる女とか、色々あるでしょう。フィギュアに凝っているオタクなのかもしれませんし、自己啓発本を本気で信じている人なのかもしれません。しかし、それらの生活をリアリズムで描く事にどんな意味があるのか。自分はずっと疑問に思ってきました。また、同時に、過去の優れた文学がリアリズムで書かれているのに、現代となぜこうも違うのか、それも不思議でした。

 結論から書きますが、要するに、ウエルベックの視点が正しいというか、ウエルベックの視点がギリギリ、文学の水準を保つ為に戦略なのではないかという事です。

 ウエルベックの小説は基本的に一人称です。世界に対する嫌悪感が全面に出ているので、私はこれを「一人称ニヒリズム」と呼んでいます。伊藤計劃なんかも「一人称ニヒリズム」だと思います。そう言えば、現代社会の空虚さ、危うさを際立たせる為にSF的手法に頼るというのも伊藤計劃とウエルベックの共通点です。しかし、両者に共通するのは、あくまでも中心は世界に対して嫌悪感を感じる一人称的な自己告白、その主観という事です。

 先のリアリズムの問題を絡ませると、要するに、単に外界を描く事はもはや文学というものにはそぐわなくなってきているという事です。革新者が現れれば私も意見を変えますが、現状はそんな風にしか考えられないという事です。

 ショーペンハウアーは『意志と表象としての世界』で、世界の有様の根源が「意志」にあると言いました。意志とはひらたく言えば欲望、本能、欲求といったものです。

 ウエルベックの言葉と合わせると、要は、意志である主体、人間は社会システムに完全に組み込まれてしまったが為に、主体はその中に完全に溶け去ってしまい、消えてしまったという事です。外界、客観世界に生きる人間は、システムに組み込まれた力ないものとなったのです。

 もう少しわかりやすく言いましょう。我々の資本主義システムは実によくできています。未曾有の発明と言ってもいいぐらいです。人は、努力する事も、その目標も、目標達成も全て、その中の網の目に従って考えます。ここに、人間の矮小化がありますが、同時に、安定・安全さもあります。文学は安定でこじんまりしたものを描くものとは違います(古典を基礎に取ると)ので、そうしたものとは相性が良くなさそうです。

 システムは今や、第二の自然として人間の目の前にあります。その中で努力し、獲得する事が人にとっての全てです。その網の目に、人間の主体や意志は完全に融合されています。溶け去ってしまっています。

 わかりやすいイメージだと、「家畜」というものが思い当たります。それぞれが小さな部屋に入れられ、その中での生を強制されているのですが、主体にとっては部屋の外は全然思い当たりません。そういう窮屈さ、つまり窮屈さを感じる事も許されない窮屈さが今の社会にはあります。

 例えば、新しい商品が欲しいという欲求が、いかにして文学のテーマになるでしょうか? 就活で頑張っている学生の話がいかに普遍的な物語になるでしょうか? ブランド品や商品名を散りばめ、それらの名前の実在性に頼った小説が、いかにして自立した形態を持ちうるでしょうか? 司法試験を頑張っている人間の悲哀は、司法試験といった人工的な制度の浮沈によって、彼の悲哀も増減します。だとしたら問題にすべきなのは、世界という名の大きな制度に翻弄される人間の虚しさか、あるいはシステムの有り様それ自体の二つしかないのではないでしょうか? つまり、そこでこちらがわの些細な欲求や、努力や、悲哀を問題にしても、大きなシステムの中に融和されてしまい、しかもそのシステムはこの社会の有り様によって簡単に揺らぐものであって、その内部でそれをいくら絶対化した所で、結局、卑小で些細なものでしかないのです。

 「みんなが何かを買う事によって自分を取り戻そうとしていた」というのはそういう世界に対する揶揄です。揶揄、批判、風刺。こうしたものは雄大な文学から縁遠いですが、衰弱していく時代においては文学者の誠実さの現れとしてやむを得ないものだという気がします。古代ローマのユウェナリスが思い出されます。彼の時代に、ギリシャ悲劇のような雄大なものを作るのは不可能だったのでしょう。

 整理すると、人間が生き、感じ、考え、行動し、そうして死ぬという事。それら全体がシステムに包摂されている為に、人間を描こうとすると、システムに埋め込まれた小さな人物を描く事になってしまいます。ですが、作り手も受け手も、そうした俯瞰的な視点を持たないが為に、表面的には普遍的に見えても、非常に卑小なもののまわりをまわっているという事になります。今、アクセス数が膨大なもののほとんどがいかにちいさな、くだらないもので構成されているか、考えればすぐにわかるでしょう。

 こうした社会において、文学をするとはどういう事か。端的には「芥川賞・直木賞またはノーベル文学賞を狙う事」になりますが、当然、これは今言っているシステム内の現象でしかありません。本来世界を描くはずの文学が、世界に包摂されて嬉々としている。これでは文学は衰弱する他ありません。

 ではどうすればいいかというと、別にどうすればいいという事もありませんが、考え方を変える必要はあるでしょう。また、人間というものの定義について、文学が描く対象も、描き方も試行錯誤する必要があります。もちろんそれは賞を取る為の試行錯誤ではありません。文学が世界を描きたいなら、一度、世界から出る必要があります。そうして「還り」の目を持って世界を眺めなければならない。ある種の諦念と言ってもいいですが、これは作家になりたいという祈願に燃えている人には理解しにくいものなのではないでしょうか。

 ウエルベックの作品の主人公で、「どうして自分は人生に対して熱くなれないのだろうか」と言うシーンがあったと思います。これは普通の意味ではネガティブな意見でしょうが、私はポジティブだと思います。あるいはポジティブになろうとするからこそ、人生の何に対しても熱くなれないのです。

 では何故そんな風になるのでしょうか。言ってきたように、世界のあらゆる事象にシステムが浸透している為に、その中で真面目に努力し、熱くなろうとすればするほど、主体はシステムの中に解消されていくからです。最近、「終活」なんていう言葉をメディアが使い始めましたが、人間の死すらもシステムの中に統合しようとしている。そうした社会の中では、熱くなる、真面目になろうとするほど、主体の意志はシステムの網の目に分解され、自分が消え去ってしまう。

 だから、自分というものを保とうとしたり、打ち立てようとする「ポジティブ」な前進が、世界に対する拒否という「ネガティブ」な形を取るのだと思います。こうしたニヒリズムは、現代では否定的なものと見られていますが、全然違うと考えています。私は目下の所、こうしたニヒリズムからスタートを切るしかないと思っています。そうしてそれがどういう意味があるのかはまた、後代の手に委ねられるでしょう。現在に生きて、現在起こっている事がわからないというのは普通の事ですが、その中でも本能的な直覚によって前進しようとする人もいます。しかしそういう人が、近くで見ていると後退しているように見えるという事も、ありうると私は考えています。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?