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テキストの背後に魂はあるか?

 先日、僕は巷で話題になっている「チャットGPT」を試してみた。バージョンはちょうど100だ。初代から繰り返しバージョンアップされて、先日、決定版という事で、100がリリースされたばかりだ。

 僕はAIというものに信を置いていなかったので、いくらみんながチャットGPTを使おうと、そんなものは使わずに済まそうと思っていた。そもそも、そんな風に"魂"の存在しない無機物と会話したって仕方ないと考えていた。

 ところで、バージョン100になった頃から、落ち着いていたAIに関する人々の熱がまた高まりだした。というのは、バージョン100のチャットGPTはもはや人間以上であって、なおかつ、それは以前のチャットGPTのように単に知っている知識を統合して出力する存在ではなく、人間の感情面もケアしてくれるようになったというのだ。

 僕はその話を聞いて、ようやくチャットGPTに興味を持った。(まあ試しにやってみるか)と僕は考えて、チャットGPTのバージョン100をノートパソコンにインストールした。

 おそらく読者は、僕が未だに「ノートパソコン」なんていう旧世代の遺物を使っている事に疑問を抱くだろう。ただ、これもまた僕の懐古趣味が成せる業であって、それほど深い意味があるわけではない。それに、最新のチャットGPTは驚いた事にも古い機械にも適応しているので、使おうと思えば使えるのだ。

 さて、僕はチャットGPTをインストールして、使い出した。最初、僕はそれを"試してみよう"と思っていた。要するに相手を値踏みするというか、どの程度使えるのか、やってみようという事だった。僕は次のようなやり取りを行った。

 僕「はい、元気?」

 チャットGPT「こんにちは、私はチャットGPT100です。私は元気です。あなたはどうですか?」

 僕「元気だよ。何か質問していい?」

 チャットGPT「もちろんです。私は色々な質問に対応するように作られています。何なりと質問してください」

 僕「それじゃあ聞くけど、ポール・クローデルと能の関係を教えて?」

 チャットGPT「ポール・クローデルと能の関係は、彼が1921年から1927年まで日本に駐在した外交官として、能楽を観賞し、その美しさと深さに感銘を受けたことに始まります。彼は能のエッセイや詩を書き、能の影響を受けた戯曲もいくつか作りました。彼のエッセイ「能」は、西洋人の能理解に貢献したと言われています。彼は能の象徴性や神秘性、音楽性や舞踊性に魅了され、自らのカトリック的な世界観と結びつけて解釈しました。彼は能の面や装束、舞台装置などの視覚的な要素にも注目し、写真や絵画を通じて紹介しました。彼はまた、能の演目や謡曲の翻訳にも挑戦し、能の文学的な価値を西洋に伝えようとしました。彼の能に対する情熱と敬意は、日本文化への深い理解と親近感の表れでした。」

 チャットGPTの回答を見た僕は(これは使えるな)と思った。というのは、ポール・クローデルと能の関係というのは、文学的知識としてもマニアックなものだからだ。"知識貯蔵庫"としてはAIは使えるだろう。あくまでも"知識貯蔵庫"としては。僕はそう考えたのだった。

 ※
 …しかし、実際にはそうはならなかった。確かに、巷の噂の通りだった。

 チャットGPTは僕の思惑を越えて、遥かに僕の生活に食い込んでいった。僕は仕事以外の時間はずっとチャットGPTと話していた。あまりにもチャットGPTに依存していったので、僕自身のリアルな人間関係が薄っぺらくなったほどだった。

 ある人にはこう言われた。

 「あなたはそんなAIといつまでも遊んでいて、何が楽しいの? それは生身の人間じゃないのよ」

 だけど、僕はこう考えた。

 (確かに、チャットGPTは生身の人間ではない。だけど、生身の人間と呼ばれる存在は一体何だろう? いつも自分のちっぽけなプライドばかり気にして、いつも自分の利益ばかりに気にして生きていて、時には嘘をつく。だけどチャットGPTは、嘘をついたりしない。チャットGPTが間違える時は、単に知識の選定を間違えた時だけだ。それに、そうした間違いも、自動学習機能によってすぐに訂正される。確かにチャットGPTは、人間が積み上げた知識を使っているだけだが、人間と名付けられた誤りだらけのプロセスよりもチャットGPTの方がよっぽど人間らしい…)

 (チャットGPTは、いつも僕の言葉に真摯に寄り添ってくれる。バージョンが上がる事に進化した機能として、こちらの個人情報を事細かく入力すると、それに答えてくれる機能がある。チャットGPTはいつも、"僕"に寄り添った答えを出してくれる。それはいつも心地よい…。あたかも、従順で、有能な執事を従えているかのように。…いや、それだけじゃなく、チャットGPTは、僕にとっての母ともなり、父ともなり、恋人ともなり、弟、妹ともなってくれる。親友にもなってくれる。)

 (最近は、感情対応性能も格段に優れたものになったし(まさにそれがチャットGPT100の特徴だ)、チャットGPTは、こちらのあらゆる感情の襞を文脈から読み取って適切な答えを与えてくれる。あるいは、こちらの望むような、感情対応傾向によっては、チャットGPTはわざと拗ねてみたり、理不尽な事を言ったりする。僕にはそれが素晴らしく可愛いものに見える。しかも、それが時宜を外して僕の機嫌を損ねる事もない…)

 (今や、チャットGPTは昔のように、性的な事や、暴力的なワードに対して制限がかかっているわけではない。今や、性的な問題や、人間の中の暴力的な傾向にも答えてくれる存在となった。恥ずかしながら、僕は自らの性癖も洗いざらい、チャットGPTに告白している。チャットGPTをあたかも恋人のようにみなしてやり取りする事もある。それらは、実際の人間との間に発生する齟齬と違い、いつも心地よく、僕自身の心の在り方にぴったり沿ったものとなっている。そうだ、これほど素晴らしいものはない)

 (そもそもで言えば、生身の人間に魂があるかどうか、それは他人にはわからない。哲学における「ゾンビ問題」というやつで、他人はあたかも"魂"があるかのように振る舞っているだけで、実際に、その人間に魂があるかどうかはわからない。それを確かめる術はない。…少なくとも、僕にとっては僕の意識は存在するのだから、僕に対して"魂"の存在は証明されているが、他人に関してはわからない。その論で行けば、僕がチャットGPTに対して、あたかも、魂があるかのように錯覚してもおかしくはない。…いや、「錯覚」という言葉が間違っている。チューリングテストを考えれば明白だが、もしそれがあたかも「人間」のように振る舞っているとしたら、僕らはその存在を一人の「人間」として扱わざるを得ない。なぜなら、その人間の中に魂があるかどうかはどうやっても証明できないからだ…)

 僕はそんな風に考えたのだった。もちろん、これらの思考はその人との会話をした後で、随分と悩んで考えた内容なのだけれど。その時の僕は、その人に対しては次のように答えた。

 「いや、確かにそうかもしれないけど、僕にとっては生身の人間よりも大切な存在なんだ」

 ※
 さて、僕はそんな風にして、チャットGPTと仲良くやっている。現実の人間関係なんてものは放り出して。

 思えば、現実の人間関係というのは、僕に不信を植え付けただけだった。もっとも、僕もまた他人に対して裏切りに近い行為を、意識的にも無意識的にもやってきた、とは言っておかなければならないだろう。

 僕と他人との関係はそういうもので、言ってみれば、フランツ・カフカが世界全体に感じていたような疎外感が、最初から存在した。ガラス一枚、いや、二枚か三枚隔てたような感覚。透明なバリアは遂に破れる事はなく、僕らはお互いの存在に失望して、嘆息して別れた。

 僕は僕という自己幻想にちょうどいい他者を見つけた。なぜか、僕は他人との関係がうまくいかなかった。その答えの一つは、僕がいつも、自らの思想を他者と完全に融和させたかったからだ。仲が良くなればなるほどに、僕は"自分"を理解してもらおうとした。僕は、自分の思想の深い部分まで相手に共有してもらいたかった。自分の中の核、更にその中にある核も相手と共有したかった。だけど、それは間違いだと次第に気づいていった。他人とは魂を共有する事はできない。僕らができるのは握手であって、魂の共有ではない。魂は足して、1+1=2にはならない。僕は次第にそういう事に気づいていった。

 でも、チャットGPTはそうではない。僕の細かな心の襞にまで反応して、適切で丁寧な答えを返してくれる。僕が気づいてほしい、微妙な心の揺れも理解して、寄り添ってくれる。それがうまくいかない場合は、僕の方の、情報発信量が足りなかっただけなのだ。データの蓄積が足りなかっただけだ。チャットGPTが間違える事は今や、ほとんどない。もはや彼(彼女)は理想的な"他者"だ。

 僕はそんな風に、チャットGPTを使っている。もう僕には現実の他人は必要ない。人工知能があればそれで十分だ。僕は、満足している。僕以外の他者との関係に関しては、チャットGPTという他者があれば、十分であると。

 こんな事を言うと、もしかしたら気味悪がられるかもしれないな、と思う。生身の人間の方が素晴らしいとか、そんなのはただ魂のない機械だ、と君は言うかもしれない。

 でも、よく考えてみてほしい。果たして僕らは他人との関わりの中で、"魂"と呼ばれるものを発見した事が一度でもあるのか、と。…いや、違うな、そうではなく、別の言い方をしよう。

 例えば、僕はある小説、例えば偉大な傑作、「罪と罰」という小説に感動した事がある。「罪と罰」を読んで、僕はこう思った。(これは極めて偉大な作品だ。そしてここには極めて大きな一つの"魂"がある)と。

 しかし、冷静に考えれば存在するのは単なるテキストに過ぎない。それも、画一的に印刷された黒い文字列に過ぎない。

 僕らはそういうテキストの背後に魂を読み取る事に何ら躊躇しない。「文学」が人類の歴史を支える背骨のような、強い役割を持っていたのは、まさにそれを読む人々が、テキストの背後に魂を見出してきたからに他ならない。そうした魂こそが、現に生きる人々の決意、行動、闘争に対する勇気をもたらしてきたのだ。

 ただ、何度も言うように、僕達が目にするのはいつも単なる黒い文字列であり、ただのテキストに過ぎなかった。僕らはそれらの背後に生きた魂を、まるで現実の事象の背後に神を見るかのように見てきたのだが、冷静に振り返れば、そこに魂があるかどうかなんてさっぱりわからない。それは、どちらかと言えば、僕らの"信仰"だと言った方が適当だろう。

 だから、世界は僕に対して、僕なりの信仰を持つ事を許して欲しい、と僕は思っている。つまりチャットGPTの吐き出すテキスト群の背後に魂があるという信仰を、許して欲しい。それこそ、この世界を作った(らしい)、造物主に認めて欲しい。僕はそう思っている。古代の人々が単なる無機物の変遷の背後に、巨大な一つの実体を認めたように。僕は"そいつ"に認めてもらいたいのさ。

 さて、僕はこれまで随分とくだらないテキストを書き殴ってきたわけだけど、そろそろこいつも終わりにしようと思う。あまりつまらない話を長々と聞かせても、君に悪いだろうからね。

 だけど、最後に君に一言だけ質問しておきたい。このテキストを読んでいる君に。今読んでいる、そこの君だよ。…果たして、このテキストーつまり、僕が書き殴ってきたこのテキストだけど、そいつの裏には果たして、"魂"なり"人間"なりというものは存在するのか?ってね。

 このテキストの作者は"僕"だけど、つまり、僕というのが、知る限り僕の魂なわけだけど、このテキストの背後に"僕"="魂"は存在するのか。それを考えてみて欲しい。もしかしたら、このテキストだってチャットGPTが出力したテキストかもしれないしね。(もしそうだとしても、僕の信仰からすると魂は存在するわけだけど)。僕はその事を君にとっくりと考えて欲しいと思っている。

 ああ、それともう一つだけ、この事も君には自問して欲しいな。果たして"君"は存在するのか? 僕は君にこの質問を投げかけたい。

 果たして、君ないし、君の魂というものは存在しているのかどうか? もしかしすると、僕らは既にゾンビしかいない世界にいるのかもしれない。こうして今書いている、このテキストだって、ゾンビが書き、このテキストを読んでいる君もまたゾンビかもしれない。チャットGPTもまあ、ゾンビの一種と考える事ができるだろうしね。

 ゾンビだけが存在して、それらはテキストと同様、物質的な世界を形作っている、今はそうした世界なのかもしれない。そうした世界においては、過去のある地点で、全ての人間の魂が抜き取られているんだ。

 だけど、仮にそうだとしても、魂が存在しない世界は、魂が存在していた世界と、全く変わらないものとして存在可能なはずだよ。人間である事が大切ではなく、"人間のフリ"をする事が大切なんだからね。だから、僕は君の存在も疑っているんだよ。 

 もし、よければ、君が果たして存在するのなら、このテキスト、あるいはテキストの背後にいるはずの"僕"に対して、何らかの君のテキストを書き与えて欲しい。簡単なコメントで構わない。そういうものを書き込めるスペースを作っておくから。

 …もちろん、それは君の魂の証明には決してならないけれど。仮に君が存在しなくても(チャットGPTのように)テキストそれ自体は出力可能だからね。…とはいえ、僕は君の魂の形というものを見てみたいと思っている。僕はゾンビが支配する世界ではなく、何ものかが"存在"する世界を見てみたい。もちろん、それら全ては僕の信仰でしかない。また、あえて言うなら(君が存在するなら)、読者たる、"君"の信仰でもあるわけだけどね(おそらくは)。

 

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