自分の頭で考える事
私はテレビバラエティでは唯一「太田上田」という番組が好きで、欠かさず見ている。爆笑問題の太田とくりぃむしちゅーの上田が二人でやっている番組で、番組自体は面白い。
ただ、太田上田を見ていて、(やっぱり太田はこのレベルだよなあ)と思うところがあったので、この機会に取り上げたい。
私が(やっぱりなあ)と思ったのは、ある女性タレントが来た回だ。そのタレントは今度、大河ドラマに出る事が決まっていて、彼女の売れはじめの頃を知っている太田は「出世したねーすごいねー」と言っていた。自分も大河に出たい、というような冗談も言っていた。
もちろん、こういう言葉は常識的に正しいものだろう。大河ドラマと言えば国民的なドラマであり、それに出る事はタレントとしては出世だというのも間違っていない。ただ、私はそのドラマ作品がどういうものなのか、実際に見て吟味する前から「すごいねー出世したねー」という定形の文句で片付けるのは、その作品自体の価値を吟味する思考が太田にはないのだ、と判断した。
もちろん、太田にも作品読解能力はあって、番組ではただタレントとして、求められている役割を演じているだけとも考えられる。しかし、私には太田の普段の言動も含めて、そんな風には思えなかったし、それに「大河ドラマに出演=凄い事」というステレオタイプな思考を太田が持っているからこそ、太田はテレビの売れっ子芸人という立場を維持できているのだと思う。
こういうステレオタイプな思考は、我々の思考の枠組みを支えていて、とにかくそれに沿っていれば、常識を持っていると認定される。例えば、紅白歌合戦が今やどれほどくだらない学芸会になっていようと、「紅白歌合戦に出演=歌手の夢」というような考えを持っていれば、テレビのような枠組みの中で咎められる事にはない。
こうした思考は様々にあって、「プロ野球選手=選ばれた凄い人」というようなものもそうだ。
最近、久保康友という元プロ野球選手のインタビューを読んで、非常に面白かった。それは私にも共感できるものだった。彼は次のように言っている。
「そっちのほうがつまらん人生やんって思うんです。みんな同じ価値観で、同じ考えでやっているの、怖かったですもん。全員、正解が同じで、目指している方向も一緒で、"自分"というものがないというか。
『お前の好きなものは何なの?』って聞いても、たぶん価値のあるものに対して好きって言うと思います。でも、ホンマにそれ、好きなんかな? たぶん本人もわからないんとちゃうかな……っていうレベルです。
『ダイヤモンド、ホンマに好きなん?』っていうのとおんなじですよ。価値があるからほしいだけやろと。」
(「web Sportiva」のインタビューより)
この後に、久保は日本の野球界を絶対視する視点に疑義を呈している。
久保康友に関しては、私は薄い阪神ファンなので、彼が在籍していた事をうっすら覚えていた。しかし、インタビューを読んではじめて久保康友という選手の実像が見えた気がした。
久保が言っている事は面白いし、ダイヤモンドの比喩は優れた比喩だと思う。確かに、ダイヤモンドが価値があるという事と、自分がダイヤモンドが好きだという事、その判別がつかない人というのは多い。彼らは、流行っているから好きなのか、好きなものがたまたま流行っているのか、判別しようとしない。
私のまわりには、「鬼滅の刃」が流行れば鬼滅の刃ストラップをつけ、「東京リベンジャーズ」が流行ればそのストラップをつける、という人がいる。こうした人は自分の好きなものが何なのか、理性的に捉える気はさらさらない。ただいつも、全体が動く方に自分自身の嗜好を無意識的に調整しているので、いつまでも世の中と衝突する事がない。要するに"自分"がない。
最初にあげた太田も同じで、大河ドラマに出る事が凄い、というのは太田自身の価値観か、それとも世間の価値観なのか、太田には分別できないだろう。大河ドラマに出る事が「出世」だという事で、とにかく称賛に値するというのは、実際にできあがったドラマの出来とは関係ない。太田は、その気質的に、社会的弱者に優しいというような事を言われたりするが、実際にはテレビタレントとしての地位を保てる程度の権威的姿勢はきちんと彼の中に持っている(だからこそ優れたタレントという事になるだろうが)。
太田の発言を聞いて、私が思い出したのは立川談志だった。太田は立川談志を深くリスペクトしていたはずだ。しかし、立川談志なら、太田のような発言は決してしなかっただろう。またそれ故に立川談志は、太田よりも遥かに扱いにくいタレントだっただろう。
私が見た映像では、立川談志は、ゲストででてきた宝塚女優に「宝塚はレベルが低いからな」とはっきり言っていた。ゲストは困惑しながらも、談志に言い返していた。この事は、立川談志という人には「宝塚」という権威が通用しなかったという証明になるだろう。
実際、自分の頭で考えるとはそういう事であって、あらゆる権威を疑い、なおかつ自分の疑いも疑うという事だ。疑って、疑った後に信じるものが浮かんでくる事と、無批判にあるものを信じる事は全然違う事だ。だが、この二つの事柄を大衆的感傷性は意図的に混同する。愚かな人ほど「信じる事は大切じゃないですか!」と言ったりする。棒のように信じる事の脆弱さを彼らは考えてもみない。
自分の頭で考えるというのは、思考に負担を強いる事だ。それ故に何も考えず、ステレオタイプな観念を受け入れていれば、いっぱしの人間になれる。「牛丼は吉野家」とか「スマートフォンはiphone」とか。そうした観念を流布する事は、企業に取っては極めて大きな利益になるので、それ自体が重要な戦略になっている。
私は、まわりの人がみな、明らかにオーバースペックのiphoneを高い金で買っているのを見て、不思議に思っている。だが、彼らはそれを不思議だとか不都合だとかは思わない。みんなが持っているから自分も持つという当たり前な観念で動いている。この観念の中にいる事は彼らに「安心」を提供する。
結論としては、人は安心したいし、自分の頭に負担を掛けたくないので、ステレオタイプな思考の中に没入するという事になるだろう。そもそも”自分”というものは、社会における抵抗の形式だ。例えば、私は普段、指先を意識する事はない。しかし指先に切り傷があると、指先を絶えず意識する。そこに欠陥がある為に、私はそれを一つの実在として、注目する。
指先が怪我していない時、指先は機能していないわけではない。指先は正常に機能している。指先は正常に機能しているが故に、私はそれを意識しない。全体の中の部分として流れているものは、全体それ自体によっては意識されない。それは正常故に、決して意識される事はない。
しかし指先が切れて、血が出ると、私は全神経を指先に集中する。まるで、指先が私から独立した一つの実在であるかのように感じられる。私はその時はじめて、指先を一つの実在とみなす。その異常性がその実存をもたらしたのだ。
これと同じ事で、社会の中で自分を持つとは、一個の異常性を自分の中に持つという事だ。全体の傾向に従わず、それを吟味するとは、社会全体の方向に対して一つの抵抗体であるという事だ。それは抵抗する故に、自己の輪郭を認識し、それが自己であるとはじめてわかる。
旧約聖書の失楽園のエピソードはそうした本質を的確に語っている。人間は楽園を追われて、はじめて人間になった。自分が裸である事を知って、はじめて人間になったのであり、彼は楽園の中にいる時は人間ではなかった。彼は楽園の一部であり、人間以前の生き物だった。
自分を持つとはそういう事で、そう考えると、この社会で自分のない人が圧倒的に多数派なのは驚く事でもなんでもないのがわかる。その方が楽だし、まわりから何も言われる事はないからだ。
ただ、私が思うのは、そうして調和した全体ーー要するに「社会」が、今や死にかけており、全体としては枯死しようとしている時、部分としての異常は、むしろ全体を新生しようとする、その始まりの物語ではないかという事である。もしある全体としての体系が絶対に正しいなら、その体系は変化する必要はないだろう。
しかし、社会もまた死んだり、生まれ変わったりする。そうした変化の過程において、一部の個人は自分の頭で考え、まるで世界の外側で生きるようにして生きる。しかしそれは、その社会が変化しようとしていた兆候を語るものであり、彼は未来を先取りしており、社会は彼に遅れて変化していく。そういう事もあるのではないか。
自分の頭で考えるとは、そんな風に社会に対する異常性を示すものであるが、それ故にその社会を越える可能性を持ってもいる。異常性は、全体からすれば不良品だが、同時に全体に従わない、「それとは違うもの」だからだ。
もちろん、現在、様々に宣伝されている「自分を持つ」「常識を越える」のような宣伝文句は実際には、社会に対する抵抗としての自分を意味しているわけではない。人々は安心しながらも、自分だけは特別だと思いたいという矛盾した欲求を抱えているので、彼らに対していい加減な嘘を与えているだけだ。
例えば、大衆に迎合するのが仕事のお笑い芸人を「孤高の天才」のような形で持ち上げるのは、大衆の中にある願望を満足させる上で役立つ宣伝文句だ。実際には「孤高の天才」が大人気で、メディアに出ずっぱりだったとしても、人はその矛盾を指摘したりしない。
「社会に反抗している」ロックバンドが、テレビに出て、ミュージックビデオを流し、バラエティ番組に出るのと同じような事だ。人々にはこうしたかりそめの抵抗、かりそめの「自分」を与えておく事が大切だ。彼らに対して自分を持つように仕向けるのはあまりにも酷であるし、かといって、彼らが自分というものを持たない流されている存在だと指摘するのはそれはそれであまりにも残酷だからだ。
それ故、そうした間隙を縫うように、人々の淡い願望を叶える浅いドラマやポップソングが絶えずメディアの上を流れ続ける。もちろんそこには「自分」はない。存在するのは、人々に溶け去りながらも同時に自分でありたいという矛盾した欲求があたかも現実に叶えられているという、そうした幻想を映し出す淡いシャボン玉に過ぎない。
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