休むことについての考察
ゆとりある働き方を許された1年間も残り2ヶ月ほどで終わろうとしている。
自分の機嫌を誰にも奪われることなく過ごすことができたのは、任されたタスクの少なさか、はたまた学校の外に出たことで働くことへの価値観にパラダイムシフトが起きたからなのか。
そのどちらにも理由があるのは容易に想像がつくのだが、その上で僕ら忙しい現代人が目指すのは与えられた業務量に余裕を左右されるのではなく、上手に働くことを自ら作り出す工夫である。
年度末まで使えると思っていた昨年繰越分の年休を20日残したまま失効した。
「え、年休って買い取ってもらえま「無理」
そういうのはもっと早く教えてほしい。お金をもらいながらハワイに行けるチャンスを20日間も失った。
このやり場のない怒りを知的生産のエネルギーとし、今回は休むことについて考えてみたい。
休むとは一体どういうことなのか?
今回休むことを考えるにあたり、さっそく今年分の年休1枚目を切り平日に伊豆のホテルに泊まりに来た。
日常の流れを変えたい3枚切り、経験を積ませるための(自主研修)2枚切り、積極的なカードを切ることを志向しつつも、インフルエンザ等アクシデントに備えた5枚残し…計画的に40枚のカードを使い切るマネジメントは監督業にも生かされると信じている。
今回の旅はワーケーションの目的はないため、仕事は持ち込まず、ただひたすら好きなことをして過ごすことにする。
今回好きなこととして用意したのは以下のラインナップ。テーマは「徹底的に非日常」
普段やっていることも場所を変えるだけで、非日常感を作ることができる。
通い続けて200日を超えたジムの鏡では気づかない身体の変化も、場所を変えいつもと違う鏡で見ることでその変化に気づく。
ホテルのベッドで見るNetflixの広瀬すずはいつも以上に広瀬すずであり、普段は飲まない酒のつまみに食べる柿ピーもいつも以上にピーナッツが入っている気がする。
一人暮らしをしている時に、金曜の夜に家に帰らずにビジネスホテルに泊まったことがあるがあれもいい、とてもいい。
生活はこうして意識をしない限り日常が切れない。日常はずっと日常なのである。
特に仕事なのか、趣味なのかわからない位置づけの先生という仕事(授業作ったり、文書いたり、サッカーの仕事したりetc.)は忙しかろうと、充実していようと、一度離れてみないと、際限なく心が仕事に注がれてしまう。
そのための非日常を意図的に用意する。
休むということは、勇気をもって非日常に触れることである。
この日ベッドでだらだらしている時にふと浮かんだ詩的な言葉で表現すると
「金曜日を記憶の遠くに送る」
ことだ。
すると次の週の月曜日はとてもエネルギッシュに過ごしていた自分に気づく。
しかし、非日常に身を置くと当然その反動が強く、副作用に悩まされることがある。
ホテルに来ると朝とても不安になるのだ。共感していただける人はいるだろうか?
非日常から日常に戻される怖さか、はたまた本能的に休んではいけないと思っているからゆえの罪悪感か。
平日に休んではいけないと思うのは、自分がいないと誰かに迷惑をかけると思うからだ。
しかし、この年になって学んだことがある。
自分がいなくても仕事は回る。地球も回る。
学校を離れた半年間、自分がいなくてもちゃんと学校は回っていて、ちゃんとみんな楽しそうだった。
それは寂しさではなく、背中が軽くなったような感覚だった。
ビジネスにおいてエースが抜けた時に誰か依存、属人的な働き方から脱却し、組織力が上がることがあるという。
そう考えると、自分がいなきゃいけないことなんて世の中にはそう多くない。
だから、安心して非日常に飛び込むといい。
頑張れない時、少し離れてみる勇気にきっと誰かが背中を押してくれるし、自分がいなくても回る事実はお守りのように支えてくれる。
そして金曜日がどこか遠くへ消えた時、またご機嫌に働ける職場づくりこそ働き方改革なのである。
それにしても、怒りが収まりそうにないため明日2枚目のカードを切るつもりでいる。