暇すぎて心を壊しかけた話
#これは何かを残そうとすることを意図しない、エゴイズム。
#また月曜日を元気に働くための書くというヒーリング。
これまで働き過ぎて心を壊していく人をいくつも見てきたし、皆見たことがあると思う。見たことがなくとも、そのメカニズムの説明を求められたらなんとなくは答えられるのではないだろうか。
自分自身もその2、3歩手前を経験したことがあるからそれは納得がいく。忙しさに徐々に余裕をなくし、笑っていようにも上げた口角は重力に抗えなくなる。
では逆に、働かなさ過ぎると人はどうなるのか?
冗談かと思うが、これもまた心がおかしくなる。不思議な話である。
''やばい、精神崩壊しそう"と手帳に書き殴って閉じた17時45分、心が壊れる前に急いで収めないとと、ジムのランニングマシーンでこうしてフリックを始めた。
厳密に言うとまったく働いていないわけではない。働くことを義務付けられた7時間45分に対して、圧倒的に仕事量がないという話である。
働きが悪いから最近食堂のご飯もちょっと減らしている。罪悪感はあれどお腹は空くから結構キツい。
自身の強みを期待されたインターンシップを終えて2週間が経過した。高校生達が見せた変容に掛けられた方方(ほうぼう)からの「すごく良かったね」に学校で育てられた''先生としての自分''に自信をもらい、それでも''もっとよくできる''を基に調子に乗って自分のいない来年の構想まで作り終えた。
これまでずっと時間を掛けてきた仕事がなくなると、急に仕事がなくなった。日々行う小さなルーティンワークにプラスして、できる限り暇を作らないようもらい掻き集めた仕事をする。
それでも時間はたくさんある。
1日に何度も時計を見るから時計方面の人に好意があるんじゃないかと噂されている。来もしないメールを何度もチェックする。頻繁に届くのはセミナーのお知らせばかり、来ればもれなく申し込む。もはやセミナー報告書を書くという仕事を作るためにセミナーを受けている。
休みの日が暇なのはいい。休みなのだから。
僕は、働いている日にお金をもらいながら暇をしているのだ。
この鬱々とした感情のことを最初はインターンを終えてのバーンアウトかとも思ったが、どうやらそうではない。
この憂鬱は暇への恐れだ。
なぜ暇は人の心を壊しかねないのか?
僕は今の会社に来た日から、研修の残り日数を日記に書いている。
上手くいかなかった時は「あと何日」を励みにするために、楽しくてしかたなかった時は「あと何日」を大切に噛み締めて生きるために、初めから上手くいく自信なんてなかったからどちらに転んでもいいようにと保険をかけた。
今日で出勤は残り20日。
19日、18日、とカウントダウンするのが寂しくて泣きそうになる。大好きなのだ。人も場所も仕事も。
びっくりした。半年なんてまとまった時間は、数年いたのと違わない感覚があるなんて知らなかった。先生をしていた自分はもうずっと前だったような気がする。
だからなのかもしれない。暇が怖いのは。
みんなが忙しく働いている時に、その忙しさに乗れないのはどこか孤独を感じる。半年研修したぐらいじゃ手伝えない難しい仕事に、僕も顔だけ戦っている振りをするしかないのが孤独なのである。
4月から暇な時間に続けている人材開発やキャリアの勉強は今現在誰にも影響を与えない、つながりをもたない仕事である。人と繋がれないことは孤独なのである。
今、誰かのためになる仕事は悲しいかなできない自分に、いつも厳しい自分は「頑張ったね」をかけてあげられない残酷さがある。4月に買った温泉の回数券は結局1枚しか使ってない。頑張ったっていつなんだ?
給与は学校からもらっている。だから残業当たり前、忙しいこの時期の学校の同僚達と同じだけの給与をもらっている。この年の教員のもらう給与が低過ぎるってことはない。だから「給料泥棒」を自覚させられる。ラッキーと割り切れるメンタルは僕にはない。
これまである程度、中堅のリーダーとして学校を引っ張ってきた自負がある。身体も心も壊しそうになりながら、それでも自分の働きが子どもたちの未来を作れるって思ってた。暇している時間、自分は誰のためになっているのか?
掛けてくれるなよ。
「山田さんいなくなったら、どうしたらいいんですか」
そんな言葉を掛けられる時期になった。
だから、暇な時間は、何もならない、誰にも影響を与えられない時間は怖くて怖くて仕方ないのだと。
月曜日から始まる最後の1ヶ月。
これだけ書き殴れば少しでも時計の方向に顔が向かないように、頑張れるだろうか。
#結局、読まれることを意識するから自分なりのおしゃれな言葉で憂鬱を着飾るのだ
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