御殿場中サッカー部と僕
自分達を主人公にするにしてはあまりに揺れることのない静かなドラマだった。
御殿場中1-3清水・清水南中
外から見ている僕らはゴールシーンをよく知らない。先制をされ、すぐに追いついてセットプレーから失点したらしい。そこからずっと攻め続け、終了間際にカウンターから失点したらしい。ゴールが決まって数秒後に起きるスタンドの歓声でゴールを知る。
計4回の中断はたっぷり時間はあるものの戦術的な介入をするにはあまりにゲームの見えないピッチだったから、気持ちが切れてしまわないように鼓舞だけをし続けた。
キックオフから終わりの笛が吹かれるまでの時間は長かったのに、これまでの頑張りに必ずあると信じていた劇的な逆転劇や抱き合って喜べる瞬間はなかった。あんなに頑張ってきたんだからてっきりハッピーエンドが用意されてるもんだと思っちゃったよ、努力を続けた主人公が報われるストーリーがあまりにも溢れすぎていて視力を失っていたけれど、そういえば報われないことの方がずっと多いのが世の常だった。
誰も予想しなかった結末だった。積み上げてきたことの大きさから、誰もあれが最後のゲームになるとは思わなかったし、あれが最後のTRになるとは思わなかった。だから悔しさよりも先に訪れた信じられないという感情の整理に時間がかかり、悔しさが襲ってきたのはしばらくしてからだった。その日は誰も家でゲームの話をしなかったという。だから負けた後、どこのチームでも決まって行われる最後のセレモニーも記念撮影もその日は行われず、ゲームから1週間後、高校生とのラストマッチと共に終えてきた。
あのゲームを終えた後、僕は泣いた。望んでいた景色を見る前に大会を終える悔しさも、報われなかった頑張りへの悲しさも、勝たせてあげられなかった責任も、楽しかった日々が終わってしまう寂しさも、これから何かあるたびに今日の日を思い出してしまう怖さも、全部が一気に押し寄せてきたから大きく泣いた。「そんなに落ち込まないで、子どものゲームだよ」きっと上手く気持ちの切り替えられない僕に掛けられた誰だかのありがたいお言葉に「はい」と作って笑って、心の中で叫んだ。
「懸けてきた想いが違うんだよ」
人生を懸けてなんて言ったら大げさに聞こえるかもしれないけれど、人生を懸けてもいいと思って毎日を過ごしてきた。多分、それは子どものゲームだったからだ。自分のゲームだったらきっと妥協もしたし、理由をつけて逃げもした。それぐらいに彼らは僕の人生だった。笑えばいいよ、それは懸けてきた想いが違うだけだから。
思えば昨年も同じところで負けた。赴任して3ヶ月、自分が2年間見てきた古巣に0−1で負けたゲームだった。「時間が足りなかった」そんな言い訳が通用してしまうだけの限られた時間の中で、それなりにサッカーになった。たった一本のミドルを食らって負けた以外は、完璧なゲームだったから絶望はしたけれど最後のセレモニーも記念撮影もその日にできた。残酷だけど、僕等指導者には選手の一生に一度を共にする機会がこれから先も何度とある。選手達の涙を見て、二度と報われない思いをさせてたまるかとまたピッチに立つ。その日から言い訳のできない1年が始まった。
「これが自分の子どもでも同じことをするか?」
色んな指導者がいて、様々な育成の方法、横文字のメソッドが乱立する中で、自分の指導のスタンスを基準としてもっておく必要はあるだろう。
僕の場合、言葉にしようと思って突き詰めていくと「これが自分の子どもでも同じことをするか?」という基準になった。
この1年間を振り返って自分に問いかけるなら、答えはイエスだ。自信をもって同じことをしたと思う。
ちょっと弱さを見せた時に「別にみんながどうなろうと俺の人生にはまったく関係ないからどうなってくれても構わないよ」と煽ることがあっても、そんなわけない。彼らがどんな道を選んで進んでいくのかめちゃくちゃ興味があるし、彼らの人生の選択に一番近くにいた大人の影響力が強いことを知っているからめちゃくちゃ責任を感じている。
そう考えると、僕には言葉があったから、手を上げる必要はなかったし、一時の感情で理不尽をぶつける必要もなかった。ピッチに転がるエラーとその理由を見つけ、ちゃんと表情を見て伝わる言葉を選んだ。そして選手はそれをピッチで試してサッカーを学んだ。
そうやって丁寧に「サッカーを知ること」がサッカーのおもしろさを最大限に享受することであると、僕の過去の後悔は言っている。
サッカーのおもしろさに辿り着く前にサッカーを辞めてしまう選手をこれ以上見たくない、だからちゃんとサッカーを教えてあげてくれ。だから僕はこうして言葉にし続ける。
僕は公立の中体連の指導者で選手を選べない。活動時間だって夏場は1時間、冬場は15分しかない。そんな環境だから大手を振って「中体連に来てね」なんて言えない。学校から部活動を切り離そうとしている今、ますます公立の中体連を選ぶ理由がなくなってきている。そんな中でクラブではなくうちを選んでくれた選手達がいるのだから、3年後「やっぱりクラブ行けばよかったね」と後悔させないためにちゃんと色を出していかないといけないのだ。クラブの名前を聞いた時にどんなサッカーかを誰もが形容できるクラブにはきっと強烈な色がある。逆にクラブチーム全盛の今、色のないクラブは何が魅力かわからず選手が集まらなくなっているなんてこともある。これは高校も同じである。ここに行ったらこんなサッカーができる、そんな魅力的な色を御殿場中サッカー部はどう出していけるか?ただでさえ色を出すことが難しい公立の中体連の選手がクラブではなく中体連を選ぶ理由になれる何かを見つけなければならないのだ。
そう考えた時に御殿場中サッカー部はちゃんとサッカーをすることを色にしようと思った。ちゃんとしたサッカーだなんて抽象的な言葉をあえて使うけれど、いつかそんな曖昧さが昇華してうちのサッカーを見た人が「ちゃんとサッカーだね」と言ってくれることを願っている。
御殿場中サッカー部の1年の歩み
昨年の中体連、優勝候補でありながら地区の準決勝で負け、能力の高い選手の揃った3年生が抜け、どうなってしまうのかと心配され始まった新チームは思いの外、強かった。立ち上げからしばらくTRMでは負けなし、地区の小さなカップ戦ではあっさりと優勝した。地元じゃ負け知らずそうだろう。そして上手くいかない経験を知らないまま、始まったU 14サッカー選手権の地区予選、先制を許した焦りでゴールが遠く、それぞれが約束事、ルールを放棄して好き勝手やった。1回戦であっさりPK戦で負けた。きっと立ち上げた当初からピッチには小さなエラーがたくさん転がっていたんだろうけど、そんなことはどうでもよくなってしまうぐらいに勝ちには特別な気持ち良さがある。勝ちが見えなくしていた弱さを負けた事実は容赦無く突きつけてきた。僕も選手も同じで、勝ち負けに関わらず自分達の目指すところを基準に丁寧にサッカーと向き合う必要があったのだ。
きっと負けるまで気づかなかっただけで、立ち上げ当初からサッカーに向かう熱量には差があった。立ち位置やタイミングにちゃんと意味をもたせチームでロジカルにエラーを解決したい僕や部長と「戦術なんていらなくね?」とまで言い僕等が求めた約束事に窮屈さを感じて自分の感覚や技術で解決したい選手の間に溝ができた。強化月間と銘打って、エクセルシオール、藤枝順心高校、御殿場西高校、常葉橘中、沼津中央高校とTRMを組んだ。当然のようにボロ負けした。
忘れもしない11月3日(木)手も足も出なかったエクセルシオール戦後、日の暮れたパレットごてんばで僕ともう一人の顧問と部長、副部長の4人で上手くいかないチームをどうしていこうか顔が見えなくなるまで話し合った。僕もマネジメントが上手くいっていなかったし、彼らも熱量の合わない周りの選手達に悩んでいたけれど、想いは同じでやっぱりみんなでいい景色を見たいそれだけだった。
チームを変えたターニングポイントみたいなものはわからない。後から振り返った時にあれがそうだったと思えるものも思いつかないのだけど、とにかく僕等は本気でサッカーに向かう姿勢を見せ続けること、求め続けること、コミュニケーションを取り続けることそれしかなかった。長い時間を共に過ごす中でコミュニケーションの総量が増えてくると、僕等への信頼からかそれぞれがちゃんと想いを口にしてくれるようになった。こういう時にはどうすればいいかと質問も増えた。僕等もピッチで見える景色からどんな戦い方が良さそうか選手に相談するようになった。そうやってそれぞれのサッカーへの理解が深まると、ピッチ上で展開されるプレーひとつひとつに意図が見られるようになった。ハーフタイムのミーティングもちゃんとロジカルにエラーを解決しようとするのだからゲームごとに積み重なっていくのが見えるのも不思議ではない。公立の中体連の良さは共に過ごせる時間の長さにあるのかもしれない。そういう意味で僕等が目指した色と公立中体連のチームの置かれた立場は相性がいい。
年が明けるとチームとしてのまとまりを感じるようになってきた。求められる戦術的な負荷に慣れてきたのもあるのだろう。選手はそれぞれの特徴を把握し、それぞれの良さが最大化されるルールを守ってプレーするようになった。ルールを示してあげることでその良さが最大化された選手がいる。逆にルールで縛らずにある程度自由にプレーさせた方が良さが出る選手がいるのもわかってきた。そこら辺の求められるもののキャパシティを僕等がわかってきたというのもある。
僕等の育成のこだわりのひとつに選手やシステム、戦い方を固定しないことがあった。僕ともう一人の顧問の山田が戦術に長けていて、いつも新しいチャレンジを促してくれた。4231、4141、442、433、343、541ただの数字でしかないかもしれないけれど、対戦相手や時間帯に応じて戦い方を変えた。TRMでは色んなポジションを経験させた。様々な景色を知っていることはゲーム中のスムーズなローテにつながった。両WGがストロングのうちは、SBにインサイドを取らせてWGへのルートを意図的に構築することをルールとしていたんだけど、SBがボランチの位置でプレーしても360°のプレーができた。ポジションにタスクがつくのではなく、場所にタスクがつく、行った先でそれぞれが良さを出しながら振る舞える選手になった。同じシステムでもそこにいる選手が違えばそれはまた違った良さとなった。ゲームの中で相手との力を見て勝手にSB、CBが入れ替わっていたり、CBが得点をしたり、どこでもプレーできるようになったのもまた強さだったなと思う。
サッカーを知るということは、自分達で戦い方を選べるということだった。
3回目の沼津中央戦では4231の守備で送り出したのだけど、3つ上の高校生の速さに前1枚のタスクが曖昧になってしまい、相手CBに運ばれ、高い位置をとった相手のSBにSHがどうしても背走する形となってしまった。選手達は442にして、ブロックの高さを少し下げた方が守りやすいと1枚上げることでエラーを解決した。県大会の浜松開誠館戦では守備時の541へのスムーズへの移行のため、343でWBへの外ルートでのB-upを提案したのだけど、慣れた景色の方がボールを動かしやすいとWBだった選手を内側に入れて開誠館相手にボール保持して見せた。
加えて日々のTRを大事にできる選手達だった。冬場は基本部活動時間が短く、TRはSSG(スモールサイドゲーム)がメインだった。チームを3つに分け、チームには必ず顧問が入り(現役でまだバリバリ動ける)4分程のゲームをひたすら回す。バチバチのゲームで育った選手達はフィジカルベースが上がってきた春には大人の僕らでも止めるのに苦労してしまうような選手達になった。だから時が経つに連れてゲームの強度を相手ではなく、自分達のその週の強度に依存させることができるようになった。
そんな本気の積み重ねもあって気がつくとチームは変わっていた。だから自信があったのだ。
どこよりも高い強度でTRに向き合い、どこのチームよりもサッカーを考え、どこのチームよりもちゃんとサッカーをするようになった御殿場中サッカー部は静岡県をちょっとだけ驚かせてやれる自信があったのだ。
あの日僕等はサッカーというスポーツの難しさを知ることになる
自分達のほしかったものを手にするためにやれることはすべてやる、準備こそ全てだと真摯にサッカーに向き合うそんな気概のある選手達だった。ありとあらゆるフットボールを学ぼうと、色んなことを経験してきた1年間だった。
圧倒的に戦力差がある高校生とのゲームから非保持の振る舞いを学び45分間1本のうち27分間をオーガナイズある守備で守りきることができた。逆にうちが多くの局面で優位を取れる相手とのゲームからはあらゆるファイナルサードの攻略を学んだ。オーガナイズのない戦い方が主戦場となる中体連だからたくさんロングボールの対応も学んだ。大雨でボールの止まるゲームでは勇気をもって志向してきたサッカーを捨てること、負けたら終わりボコボコの河川敷での公式戦からはプレッシャーに負けて志向してきたサッカーを捨てざるを得ないことを学んだ。遠征に来ていた作陽高校に部長、副部長を送りこんだり、雨の日は学校に内緒で体育館でフットサルをしたりした。
あらゆるフットボールを知ることで選手達はどうなったかというと、サッカーがおもしろいと、サッカーが好きだと言うようになった。オフの日にオフの過ごし方がいまいちわからない僕の「パレット取ったけどボール蹴る人いる?」にほぼ全員が集まってしまうぐらいのサッカー小僧になってしまったのである。
しかし、色んな経験をしてきたにも関わらず、濃霧だけは想定していなかったし、ねらって経験しておくこともできなかった。霧の中から現れる2列目の選手はどうやって捕まえればいいのか?くそ、神様とはまったく意地が悪い。いつもより多めに100円を投げ入れたのにである。返してほしい。
積み重ねてきたものの大きさに自信があったからこそ、知らないサッカーの難しさを理解するのに苦労したのだ。
僕等が志向してきたサッカーは丁寧にボールを運び、ロジックでゴールに迫るやっていておもしろいサッカーだったけれど、そうではないサッカーもまごうことなきサッカーなのである。
あの日僕等はサッカーというスポーツの難しさを知ることになる。まだまだ知っていたのはほんの一部だってことだ。
ラストゲームは集大成のようなゲームだった
このチームの終わりのゲームが濃霧の中で行われたゲームでは3年生が報われないと、元々県大会に出場した時用に組んであった御殿場西高校との3回目のTRMをラストゲームとすることにした。
このラストゲームは彼らの1年間の集大成のようなゲームだった。
4231で臨んだゲーム、保持局面では相手がハイプレスに出てこないとわかるとCBが積極的に運ぶことでボールを前進させようと試みた。ボールを運ぶことに怖さを感じていた頃は、ボールを受けた深い位置から相手のセカンドライン(2列目)の選手への距離の長い縦パスをねらい、それを奪われカウンターを食らって失点することが多かった。しかし、運ぶことを求め続け、誰に向かってドリブル(正対含む)するか、情報を取れなくなるからスピードを上げ過ぎない、リリースのタイミング、ドリブルに合わせてVO(IHであることも)バックステップでドリブルのスペースを作る、CBへのプレッシャーの掛かり具合でVO(IHであることも)の列下ろし、運ぶことで距離を短くしカウンターにすぐ出れるようにするリスク管理するetc‥そんな整理をすると、知識が漠然とした運ぶ怖さから解放してくれた。高校生や開誠館相手でも2人のCBは積極的に運べるようになった。
B–upのSBの立ち位置はインサイドを求めていた。相手が内側を警戒し、ワイドに張ったうちのストロングである両WGへのルートが空くのであればそこへのパスが通るし、プレッシャーの状況次第ではWGの立ち位置を見て本来のSBの立ち位置を使い分けた。賢いSBに何度も助けられた。そのルートを読まれ始めると、相手SBを押し上げられうちのWGがどうしても下がってボールを受けてしまい全体的に押し込まれる状況が生まれてしまう。そこで相手SBを低い位置で固定させようとトップの選手がサイドに流れWGへのプレッシャーの緩和を試みる姿が見られた。
守備時はこれまで力関係を測りリトリートでの応戦をしていたが、自信からかミドルブロックからハイプレスへの移行で積極的に高い位置でボールを奪った。ワントップで一人で1つも2つもパスコースを切る頼れるエースは守備でも汗をかく。奪った位置から縦に速く、決定的なパスを出せるVOを起点に得点を奪う。
SBの背後へのパスにCBがカバーに出るのかVOがカバーに出るのか、ブロックの高さで使い分けた。CBをつり出されないようにと必死でカバーに戻るVOの一番小さな部長の姿はいつもみんなの勇気だった。
こうして起こした現象すべてに理由があって、立ち位置やタイミングそのすべてに意図がある。
丁寧にサッカーを学び、何度も同じ状況を作り出せるそれが御殿場中サッカー部の強さであり、色だった。
中体連には負け望んでいた景色を見ることはできなかったけれど、望んだサッカーを1年かけて作り上げることができた僕らは勝ったのだ。
終了の笛と共にピッチに倒れ込んだゲームはちゃんとみんな笑顔でした。
おわりに
中体連が終わった次の日、僕はサッカーが大嫌いだったけど、大嫌いなサッカーを朝から晩まで見てはノートに色々書き殴った。きっと僕の不勉強で解決できなかった問題がピッチにはいくつも転がっていたからだ。そのせいでまた唇を噛み締めてこれから始まる悔しさを乗り越えないといけない選手を作ってしまったからだ。
気持ちが整理できた翌週、選手に伝えたことがある。
「この負けを最悪だと決めてしまうにはまだ早い」
サッカーをあきらめられない理由ができた者も、よりサッカーに真剣に向かうようになるきっかけを得た者も、それぞれがこの負けを整理できたもう少し先でその答え合わせができるのだ。
ハッピーエンドが用意されていなかったことが、よいことだってある。
そもそもまだ終わっていないのかもしれない。
お世話になったみなさんのおかげでめちゃくちゃいいチームになりました。みなさん御殿場に遠征に来る際には声を掛けてください。パレットごてんばを用意して待っています。やまだ
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