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友達がいなくなった。


まとまった休みをもらうとギョッとすることがある。これは今回の夏休みもGWの連休時にも感じたことではあるんだけど、ワタクシ自分でデザインする休日が圧倒的に苦手である。

だから、いとも簡単にパズルのようにしたいことを見つけて、それを組み合わせ満足のいく絵にし、明日から始まる仕事や学校を憂いまだ目を瞑りたくない人たちに羨望の眼差しを向けることがある。こちらにはさっさと終えたい今日がたくさんあるというのにだ。

友達がいなくなった。

本当に会わなくった。実感として、30を越えたここ1〜2年で強く感じる。ちょうど周りが結婚し、子どもができ始めた時期に重なる。街で偶然会い掛けられた僕ら世代のおはよう「今度飲みに行こうぜ」が叶う日はいつ訪れる。

そしてそれは結婚も子どももない大人が強く感じるいずれ訪れる孤独への不安でもある。同じ音、異なる意は日本語の美しさではあるのに一人と孤りはまるで感情の質が違う。富士山に登る前にせっせと作った友達100人はどこに行ったのかという話である。

それと同時にデザインされた休日の過ごし方はすべて自分の手によって書かれた手帳ではないことを教えられた。まるで薄字のあいうえおをなぞるように、人の予定で動いてきたことを知る。今、本当に何をしていいかわからない。

久しぶりに悩めるティーンエイジャー向けの記事を書こうと思ったのだが、これはワタクシ自身の悩みにとりあえずの決着をつける会でもある。

「友達がいないんですけど、友達って必要ですか?」

その類いの質問に対する答えとしてあらゆる炎上を避け、誰も傷つけないやさしい時代の代表格令和が出した正解として用意されるのは、だいたい「何でも話ができる友達が1人でもいれば大丈夫」か「友達なんて無理に作る必要ないよ」のどちらかであろう。

「友達100人できるかな?」なんて昭和の名曲を引き合いに出し、「あれが助長する」ととりあえず叩いてみるムーブで友達がいないという現状をやさしく包み込んであげたりもする。

もし僕が教室でそんな質問を受けた時、果たして子どもがほしい言葉はそのやさしいテンプレだろうか、今同じように友達がいなくなった僕はそれで納得するだろうか、そして今僕はこの現状にどんな答えを出そうとしているのか、考えてみる。

友達は必要か?

おそらく友達は必要である。

数はさほど重要ではないと思うのだが、「1人でもいればいい」というお守りで送ったはずの言葉が足枷になって、価値観やわらかな15歳が自身の価値観に合うパートナーをそれ以上広げようとしなくなってしまう可能性があるため安易に送らないと思う。

ただ色んな場所に置いておくといいとは思っているためそれは伝える。

学校、教室だけが所属するコミュニティだと考えると、そこが生きるに辛い場所になってしまった時に人生の終わりだと大きく解釈してしまう可能性がある。おそらくこれは新しくない考え、色んなところで言われているね。子どもが所属することができるコミュニティは大人ほど多くはないものの、場所に応じた自分がいることを知ることだっていい経験だと思う。「本当の自分」なんてなくて、場所や関係性に応じた色んな自分がいるんだって知るといい。

そうだ友達と呼べる年齢の括りだって広げてしまうといい。

今の子ども達の特徴である、あの上限関係のなさは、違う時代を生きた大人からすると違和感を感じるかもしれないけれど、僕はいいなと思うことがある。先輩後輩がフラットで、同級生かのように振る舞っている。教室に友達が少なくても、後輩となら、先輩となら上手くやれるってこともある。この間出逢った高校生が、学校にいると「大人ぶってる」なんて言われるけれど、バ先(おそらくバイト先だね)の人達は話が合うから居心地がいいって言っていた。それでもいいよね、広く友達だと呼べる。

「友達がいなくなった」なんて大袈裟に言い放った僕も週末になると所属するサッカークラブがあってそこには色んな年代の仲間が集まる。歳が離れていても、サッカーを通じて楽しくコミュニケーションを取っている。今いる会社も一緒に働くのは、弟たちよりも年下なんだけど、大人になるとあまり年齢は関係なくなるんだろうなぁ。敬語の必要性を説く立場の仕事をしているけれど、それを勇気もって超えてきてくれてタメ口が混じり始めた時、なんか嬉しい感じがするこれ、わかる人いる?

年齢関係なくリスペクトし合える関係性が大事だって気づくと関係性の構築はすごく楽になるのだけれど、年下は認めないこともまた若さってことで、いずれ気づけることをおすすめする。

友達のような家族ってのもありだろう。

中高生の内はなぜか家族といることが恥ずかしいような気もするけれど、よくよく考えると家族が恥ずかしい理由なんてなかったりもする。大人になると共に行動することを別になんとも思わなくなる。家族と仲が良いとか、長いこと共にするそんな友達と趣味が合うってのは幸せなことなんだと思う。唯一無二の味方がいるって知ると、足りないと思っていた自分を勘違いだって知ることがある。

あぁそうだ。人を選ばないってことも僕は大事だと思うの。

「ワタシは孤独だ」なんて言いながら、ちゃんと選んできた過去がある人がいる。やれ自分にははもっと上(何軍だとかヒエラルキーだとかの話)の人が合うだとか、誰それと一緒にいると周りから馬鹿にされるだとか、そんな理由で選んできた過去がある。若いうちは一緒にいる友達で自分の足りないところを埋めようとする気持ちはわからなくないから、差し伸べられた手を払ってしまうこともあるけれど、誰と一緒にいても自分の価値は変わらないし、そもそも穴なんて開いていないのかもしれない。人によって態度が変わる大人にはきっと大きな穴が見えているんだろう。

自分が友達ってのも良いだろう。

僕は一人であれこれ考えている時間が好きで、それが散歩でも日記でもサウナでも構わない。あれこれと思考している時間が楽しくて、一人が好きって人はきっとそんな時間が好きなんだと理解している。ただ、独りではないことが保証されているから楽しめることでもあると思っている。スケジュールに「思考」だけを書くには、僕はあまりに人が好きである。

今という時代はやさしいから、おひとりさまがやさしく守られる。僕みたいなおひとりさまにはとてもありがたいんだけど、やはり人が恋しいし、恋しいから寂しく怖いのである。きっと共感してくれる人、多いんじゃないかな。

孤独もへっちゃらだって人もいるから、時代を代弁するような強い主張はできないものの、やはり友達は必要である。

一人が楽しい人を無理やり引きづり出す強いやさしさでもなく、孤独に震えてどうしていいかわからない人に「一人が好きなのよ」を決めつける関心ないやさしさでもなく、

わからないかもしれないけれど、ちゃんと心を覗こうとしたちょうどよいやさしさを教室に置いておけますように。

みんなに引きづられて楽しい夏休みでした。

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