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今日はじめて美術館に行ってきた。

今日はじめて美術館に行ってきた。

漫画のひとシーンを描くならおそらくありそうな、慌ただしい日常に嫌気がさした主人公が、ふと日常を離れて美術館に赴き、そこで出逢った作品に心を奪われて何かしらを感じ、また日常を生きる活力を取り戻しそうなあれである。

僕のバイブル『いつかティファニーで朝食を』にあってもおかしくないエピソードをふとやってみたくなったのは、僕は今紛れもなく、主人公と同じように日常に悩み、日常の慌ただしさに疲れてしまったからである。

「いつもしないことをするといい」と、昨日開いた本で好きな作家さんが言っていたのを実行した形だ。そう美術館に行けばまた戻ってこれそうな気がしたのだ。

美術館に行くことは厳密に言うとはじめてではない。デートコースの1つだったし、遠足の定番だった。ただ、ディナーの予約までの時間潰しでしかなかったし、自発的に足を運ぼうと思ったのははじめてであることを考えると、今日僕ははじめて美術館に行ってきた。

最初はnoteのネタになるおもしろいものでも見つけようかと思ったけれど、結果僕は閉館間際の2時間前に入った近所の小さな美術館を3周していた。しっかりと美術館の本来の楽しみ方をしていたんだと思う。

僕がはじめての美術館に選んだのは『原田治展 「かわいい」の発見』である。

原田治の名前は知らなくても、ミスドのキャラクターのデザイナーだと言えば伝わるだろうか。

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今年の頭に各教室に1枚ずつ貼られたこのポスターに目を惹かれ、これをはじめての美術館にしようと決め込んだものの休みの日ですらサッカーに時間を奪われて気づけば展覧終了の1日前。

デートや遠足の場所として選ぶ時は、そもそもそこの作品を楽しむことが目的ではないことが多く、誰かと一緒に来ている手前「楽しい」を共有しないといけない気がするのだ。思いもしない「凄いね」がポロポロと溢れ、「やっぱり俺美術館無理だわ」も言えずに、そんなんだからそこを出る時には「俺にはまだ早かった」と楽しめなかった自分を教養の無さに結びつけ、落ち込むのが常だった。

ただ、はじめての美術館はとてもとても面白くて、居心地が良かった。隣で話をしていたおそらくアート方面の男性達が語り合っていた「この作品は…」という専門的な楽しみ方はわからないけれど、そこにいる自分は間違いなく楽しい時間を過ごしていたと思う。撮影の許可される展覧会は、シャッターの音がうるさくて嫌だなと思ったぐらいには、少し楽しみ方がわかっていたのかもしれない。

今日僕は自分の好き嫌いを改めて見つけることになる。

今日発見したことがある。僕は誰かと行く映画が苦手で、誰かと行く美術館が苦手だったんだということ。人の目を気にするが余り、そのものの受け取り方を誰かに寄せてしまう自分が嫌いだというだけの話だったんだと。そのもの自体が苦手だったわけじゃないんだと。やったじゃないか、また一つ楽しいなと思える時間が増えた。

目に映る対象はもしかしたら何でも良かったのかもしれない。ただ常に何かを求められて、その全てに応えようと自分の時間を余すことなく誰かのために使っている今の自分は、ゆっくりと流れる時間が必要でその慌ただしさに疲れてしまっていたのかもしれない。

原田治作品は日本に生きていて、よほど世に無頓着で無ければ必ず目にしたことがあるものばかりである。

これも

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これも

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毎朝ストレスでしょうがなかったこれだって

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色んなところで目にした分、愛着も湧くというか。それぞれに思い出のある分、愛着も湧くというか。

それぐらい世の中にあり過ぎる作品なんだと、もっとこの人について知りたいと思った時にはもうこの世にいないなんて皮肉な話である。

もう何十年も前の作品なのに、若者がこぞって「かわいい」と言い、混雑をなしていたのには理由があるっぽい。

イラストレーションが愛されるためには、どこか普遍的な要素、だれでもがわかり、共有することができうる感情を主体にすることです。そういった要素のひとつであると思われる「かわいらしさ」を、ぼくはこの商品デザインの仕事の中で発見したような気がします。(「別冊美術手帖」1983年秋号より)

「かわいい」には、時代性や趣味性を凌駕する普遍性があるという発見。

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素敵すぎやしないか。

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