「ちゃんとサッカーしようぜ」と言うけれど
目標であった県大会出場を危なげなく決めたゲームの後なのに、選手達の表情に笑顔はない。
「自分達のサッカーに納得がいっていないから」彼らは言う。入学からずっと戦ってきて、一緒に戦うことができる残り2ヶ月のサッカーにしてはあまりに出来が悪い。
準々決勝までの2時間のインターバルでボード上でマグネットを動かしB-upを確認した後、空きコートではなぜあそこまで2トップのプレスに苦労したのかを話し合う。選手それぞれにその時かかっていたプレッシャーや、考えていたことをヒアリングし、CBの数m単位の立ち位置の悪さと、CBからWGの距離の遠さゆえの角度の無さ、そもそも相手の2トップ以下2ラインが引いていた相手に偽SBを運用することは正しかったのか?本来の位置で受けたらよかったのでは?を一緒に考える。
2時間後。悲願の東部大会優勝を目指した準々決勝。前半の先制以降、攻め続けるも次の得点が遠く、後半に逆転されてまたしても阻まれる。いい加減勝たせてくれてもいいものを。3年間、光らない、まったく光らない。いい加減勝たせてくれてもいいものを。
しかし、教員という立場を離れてベンチに入れない自分はコーチングができない歯痒さと引き換えに、ベンチではもてない冷静さを手にしてゲームを読み解いてみる。
「これでは勝てない、負ける理由がありすぎる」
理想に近づきつつあったチームは、今ちょっとフォームを崩して今週県大会に乗り込むことになる。
僕ら含めて誰一人納得してない。あぁよかった、みんな同じ目をしている。
「ちゃんとサッカーしようぜ」と言うけれど
10年前のFacebookの投稿が流れてくる。
GWの富士川河川敷はこの時期の風物詩である。この10年フットボールは進化したが、あれから10年河川敷で見るそれは時代についていけているだろうか?
大会を通しての所感を述べる。
◯クラブチームが増えて選手がそちらに流れる傾向がある中で、中体連にもおもしろい選手はいる。早期専門化で小さな頃からサッカーができる環境があること、部活動と掛け持ちでプレーできるスクール環境が整い始めていることなどがある。
◯一方で10年前からフットボールは大きく進んでいるのに、グラスルーツ、特に中体連の地区大会レベルではあまり変化が見られない。理由は明白。これだけ情報が溢れているにも関わらず、取りにいく人は一握りであること。また指導者の頭の中が変わっていてもそれをピッチ上に落とし込む指導力がある指導者が少ないこと。選手の質が上がっても、運用する指導者の力量でフットボールが変わらない。
それは外から見た自チームも同じ。同時期に行われるクラブユースのゲームを見て、あまりに異なるフットボールの強度や理解に強く危機感を感じている。
悔しいかな、カテゴリーが上がった時、「これだから中体連上がりは…」と言われてしまっても仕方ないフットボールの差がある。事実、前所属に圧倒的にクラブの選手が多い現状を僕らはどう受け止めるのか。
中体連出身の選手がクラブ出身の選手とのレベルの違いから高校サッカーを楽しめないでいる。そんなことに僕ら中体連の指導者は危機感を感じる必要がある。
サッカーの本当のおもしろさに触れる前に、サッカーをやめていくそんな不幸がある中で、僕らに責任はないとあぐらをかいていていいのか。子どものせいじゃない。僕ら指導者が求めないからだ。求めないから、変わらないのだ。
1つ1つのプレーに理由を求めることなく、ピッチに響かすその怒号が選手をその通りにプレーさせる。アップデートのないまま響かす怒号がいつの間にか選手のアップデートを止めている。1プレーごとにベンチを見る選手、自分の意志でプレーできるからフットボールは、スポーツは自由だったのではないか?
勝った時の高揚感は、麻薬のようなものだから、是が非でも勝ちたいのはわかる。僕だって本気で悔しいのは本気で勝ちたかったからだ。
負けた悔しさからまたフットボールを整理しようと躍起になれたからよかったものの、もし勝ってしまっていたらきっとあの内容すら肯定されて、そこら中に転がるエラーが見えなくなってしまった可能性があったことにちゃんと肝を冷やしておきたい。
緊張があったことも、負けたら終わりのプレッシャーが掛かっていたことも、グラウンド状況が悪かったこともわかってあげたい。それでも、ピッチにいる全員が共通理解のもとフットボールできなかった理由はちゃんと全員で考えておきたい。
知っていることとできることは違う。ボード上で実現可能なことがピッチでは不可能なことがある。その不可能を可能にするために、これまで積み重ねてきたTRは適切だったか、伝えた気になっていなかったかを本気で考える必要がある。
中体連の指導者を代表したような口ぶりで偉そうなことを記したが、僕らにも大きなマネジメントのミスがあったと思う。あの内容を見て、とても満足のいくゲームがあったとは言い難い。
これはTRM、TRにおける僕らの関わり方に原因があるのではないかと考えた。
ドリブルにこだわるチーム、フィジカルの優位を目指すチーム、リスクを切ってひたすらロングボールを蹴るチーム、色んなチームがある中で僕らは''サッカーをする''ことを求めるチームだ。
''サッカーをする''なんとも抽象的ではあるが、いくつかの選択肢の中からその場の最適解を選ぶことができることを目指すことがサッカーをおもしろがれる選手を育てると思っている。
短いパスだけにこだわることなく、最適とあれば長いボールを蹴る。あらゆる状況下において、自分達はどんなソリューションを提示するか?をもてるチームである。
そうなるとこのカテゴリーでは伝えることも多い。''選手に考えさせる''を、サッカーを知らない選手達に0からソリューションを生み出すこととしていない。TRM、TRで状況が提示してくる「さぁ、どうする?」に選べるものを伝えている。
ともするとTRMで僕らは顧問全員がピッチ内に立ち、選手と同じ景色を見て、''操作''することが多い。
数m単位のB-upの立ち位置から、
「CB開きすぎるとSH出てきちゃわない?」
ドリブルの運ぶコース、スピード、
「スピード上げすぎない!情報取れなくなる!◯と◯の間に向かって!SB高さ!」
ボールの循環の回数まで、
「もう1回循環しないと、2トップ動かないよ!運ぶスペース作るためにもう1回循環して!」
TRMにおけるガイドありの自チームは正直おもしろくて、強いサッカーをしている。同じカテゴリーのTRMなら、負けは数えるぐらいしかない。
しかしどうだろう?勝てば県大会を決める公式戦をことごとく落としてきた過去がある。
今回だってそうだ。
怖さがあったからか相手を動かしてスペースを作る意志はなく、1回のボールの循環だけでスライドの間に合った中に縦パスを入れては奪われる。
数的優位をまるで同数、不利のように振舞う。
相手の出方に関係なくSBは内側に居続けて、CBからWGは遠くボールが進まない。
ボールアウト、ゆっくりとボールを拾いに行く姿勢から、状況関係なく''蹴る''ことを全員が許容しポジションを取るのが遅い。ボールが回らない構造での必然のボールロスト。
ベンチから声を響かせた時には、もう間に合わない状況がいくつもあった。
選手のエラーだけど、選手が悪いわけではない。きっと育て方に原因がある。上手くプレーさせたくて、勝つことが自信になるからと本当は僕らの勝ちたいをTRMから押し付けて何でもかんでも手を貸しすぎたのかもしれない。
なぜそれを選ぶのか?を自分で選ぶことを邪魔してしまっていたのかもしれない。もっとなぜそれを選んだのか?を聞いてあげる必要があったかもしれない。僕らの声がなくても戦えるように、手を離す時間が必要だったのかもしれない。もっと丁寧にサッカーノートと対話する必要があったのかもしれない。パスコンひとつ取ったって、B-upのルートで作れたかもしれない。もっと…
考え出すとキリがない。
「サッカー部は3人も顧問いるのに結果出せないとクビだぞ」
その場のノリ、冗談で言われた言葉なのに、僕ら3人はムッとして悔しくて3人でひたすらサッカーについて議論する放課後の日々がある。
手放すこと、ちょっと遠くから見守ってみること、本気で考えることを促すTRであること、もっと一人ひとりと喋ること、もっと…
やはり考えだすとキリがない。
「ちゃんとサッカーしようぜ」今大会もそんな声を当たり前に聞いた。
「ちゃんとサッカーしようぜ」指導者がそんな声をピッチに響かす時、極論全部サッカーなのだけど、そこには選手と指導者がどんな物語を作ってきたかがよく見える。何も求めて来ていない日常が何かを生むわけがない。
僕らの声がピッチに届く時、それは怒りを混ぜた苛立ちの発散ではなく、ちゃんと戦ってきた日常がピッチに広がる声でありますように。
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