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僕はこの幸せにどう報いたらいいのか?

今はただ幸せである。

理由は明白で、足りないものがない。

家族がいる、皆笑顔を奪われるほどの大事がない。

仕事がある、幸い好きなことを価値として受け取ってもらえる。

仲間がいる、あらゆる場所に時間を忘れるほど楽しい時間がある。

お金がある、生きていくのにはまるで不便なく、贅沢をすることを選べるし、しないことも選べる。

好きな自分がいる、どれも足りているからか、人にやさしくできる心の余裕のある自分が好きである。

日々些細な悩みや不安はあれど、それは幸せを奪うほどの力はない。

玉入れのカゴから取り出すように一つひとつを手に取り、その感触を丁寧に数えていくと、ちゃんとここにあるんだと実感する。

ひとーつ、ふたーつ、みーっつ、

「あぁこれは幸せなのか」と。

しかし、ただ幸せであることに時々いたたまれなくなることがある。

ただ存在することはいたたまれない。

「あれ幸せでいていいんだっけ?」

ただ図々しく消費し続ける自分には理由がない。

だから働き、幸せでいてもいい理由を探す。

与えた価値の大きさ分、今日も幸せでいていいのだと胸を撫で下ろす。

悩み、不安に怯えるのも同じである。

あれはきっと自分で作り出している節がある。

抱える苦労の分、それが幸せでいていい免罪符のように、悩み傷つくのはただ存在することのいたたまれなさを収めるエゴであるんだと考えると少し痛みが和らぐ。

そんな収支計算をしていると、無条件に用意される夕飯を目の前に箸を止め、ふと思うことがある。

「僕はこの幸せにどう報いたらいいのか?」

改めて考えてみると難しい問題だ。

月並みではあるが、与えられた幸せを幸せだと自覚することが必要だろう。その大小に関わらず、そこにあることに気づこうとしないと当たり前という名の影に隠れて見えなくなる。

ゆえにちゃんと言葉にした「ありがとう」、またそれに代わる言葉を送ることは一つの報いである。

もうひとつ。

普段何気なく使う人権という言葉を考えたい。

平たく言うと「人間として幸せに生きる権利」である。

人権と関係のない人はいないのだから、つまるところ人は無条件に幸せに生きていいのである。

そんなことを知ると少し安心する。そっか誰の何にもならない今日も「幸せに生きていいんだ」って。

しかし、これは権利なのだと傲慢に享受するのでは、きっと永くは続かない。

平和と同じ、僕らは自らの幸せを守り続けなければならない。

与えられたものを’’当たり前’’に昇華(退化とも言える)させないように、ちゃんと守り続ける必要がある。

そして人の幸せも同様に守り続ける必要がある。

僕はもう十分幸せなのだから、自分の幸せを増やすために、人の幸せを奪わないようにしよう。

そんなことを小さく誓った。声に出すほどではない小さな誓いを日々立てては忘れ、また思い出しては少し言葉を変えて自分の中に残している。大きく誓うにはまだ恥ずかしい。

僕は無意識に自分の理想のために人をコントロールしようとする節があるようなので、特に最近は自分の定規で人の幸せを考えないよう、関係性の上響きやすい強い言葉を掛けないように生きている。

良かれと思って差し伸べた手で、誰かの幸せを奪ってしまうことがある。子どもの未来を変える力だってもっている、もっちゃっている。

それは善意の顔をしているから、奪われたとわかっても誰も責めるに責めれない難しさがある。

そんなのあまりにかわいそうじゃないか。

いただいた幸せの大きさに対して、いまいち働きが足りない気はしているので申し訳ないのだが、人は人が幸せでいるのを見るだけで幸せでいられる気がするので、まずは皆自分の幸せを誰にも奪われないように生きていこう。

そして見返りは求めず、淡々と誰かの幸せになりたい。

今日も夕飯を作りながら母はきっと言う。

















「ケーキがいい」って。


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やまだえっせい
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