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190.時を経て

2024年、6月下旬。梅雨真っ只中の事。

夕方頃、家へ帰り玄関のドアを開けた瞬間、ムワッとした熱気が体を包んだ。日中の熱気がこもり、家の中に滞留している。私は家中の窓を開け放ち、換気を行う事にした。だが、リビングの窓を開けようと近付いた瞬間、私は思わず声を上げた。

『なんじゃお前らは!』

窓際のサッシ付近にアリの軍団がたむろしていたのだ。

昨年の秋、突如として発生したアリ軍団。紆余曲折を経てお引き取りいただいたあの日(前回参照)。あれから早半年。何の前触れもなくカムバックしてきた。奴らの目的は我が家を居住地とする事。申請も行なわずに侵略しに来ているのである。そして今年もあの言葉が脳裏をよぎった。

《私が家賃を払っているのに》と。

昨年は"不殺の心"を持ち、アリを見つけては息で外へ吹き飛ばし、それでも諦めない場合は『お帰りいただけますか?』と聴覚に訴え、それでもダメな時は嗅覚に訴えるべく最終兵器《ハッカ油》で侵入を防いだ。

もちろん今年も変わらず不殺の心で応対を試みる事にした。

半年以上のブランクがあれども、やるべき事は覚えている。窓を開け、アリを息で外に吹き飛ばし、ティッシュにハッカを染み込ませてサッシに塗布する。我ながら手際よく事を進める。だがこれで終わりじゃない事は分かっている。根気強くやっていく事が必要なのである。

しかし翌朝、窓際の様子を伺うと声を失った。すぐに復活する事は分かっていたが、想定より多くのアリが復活していたのだ。これには若干引いた。昨年はサッシ付近でウロウロしている程度だったが、リビングのソファとテーブル付近まで訪れる者もいる。奴らは本気である。今年こそ我が家を奪おうと全力でここに来ている事が窺(うかが)い知れた。

数日は吹き飛ばしとハッカの塗布で凌いでいたが、埒があかない。私は"どうしようか"と頭を悩ませた。そして本気で考え抜いた結果、一つの答えに辿り着いた。

我が家にある人類の叡智の結晶ダイソン。こいつに頼るしかない。

吹き飛ばしから吸引へのシフトチェンジ。まさに逆転の発想。これしかないと判断し、サッシ付近にたむろしているアリ軍団を一網打尽にした。凄まじい爽快感、そして手軽さだった。しかも吸い込んだらまとめて外に放つ事ができる。

『(もうこれでいいじゃん)』とダイソン作戦に完全にシフトする事にした。ハッカは使わず、出現させるだけさせて、吸い込んだら外(少し遠く)にリリースする。これの繰り返し。完璧である。不殺の精神にこだわり抜いた最高の作戦。

それを1週間も続けると、あからさまにアリの出現率は減り、ダイソンを使わない日も出てきた。

そして私は確信した。《今年も私の勝ちである》と。彼らには申し訳ないが、互いに気持ち良く生活するには致し方ない事なのである。ありがとうアリ。ナイスファイト。

─数日後─

夕方頃、家へ帰り玄関のドアを開けた瞬間、ムワッとした熱気が体を包んだ。日中の熱気がこもり、滞留している。私は家中の窓を開け放ち、換気を行おうとした。だが、リビングに足を踏み入れると異変に気付いた。

テーブルの横に設置しているチェスト。ちょうどいいサイズのものが売っていないなかったので、自分で作って設置した収納棚というか、小型のチェスト。木材を買い、塗装し、元大工の友人に"よくこんなの作ったな"と褒められた我がチェスト。その天板の上に今までと異なるオーラを感じ取った。

近付き、目を凝らすと声を上げる事すら出来ずに絶句した。

大量のアリが1ヶ所に集まり、黒い塊になってウヨウヨしている。私はすぐに理解した。これはハチミツに群がっていると。前日、ヨーグルトにハチミツを入れて食っていたのだが、そのハチミツが何かの拍子で天板の上にこぼれていたようなのだ。

山田、痛恨のミスである。

さらに窓際からその塊に向かって長蛇の列が出来上がっているではないか。こんな数、一体どこに隠れていたのだろうか。

私はダッシュでダイソンを取り、視界に入る黒い物体を片っ端から吸い取った。そして『(さすがにもう限界だ)』と、その勢いそのままにネットショップで検索をかけ、アリ撃退の商品を購入した。

その名を《アリメツ》という。"アリを滅する"が由来と思われる、アリを撃退するために生み出された商品。

私はそれが届くまでの間、ダイソンでその場を凌いだが、その猛威は止まらなかった。確実にやつらは侵略を試みていると感じ取れた。

そして、2日後そのブツは届いた。

その日の夜、早速アリメツの設置を試みようとしたが"不殺の心"が引っ掛かり、なかなか手が進まない。ギリギリまで悩んだ結果、もう少しだけ猶予を与える事にした。

少し話は逸れるが、私の先祖を何代か遡るとお侍さんがいるらしい。一応私は侍の末裔という事になるのだが、その侍の精神にのっとり、アリさんに対しても正々堂々と口上を述べてから猶予を与えようと考えた。『やあやあ、我こそは!』なんて古典的な事はしないが、アリに向かってアリメツを見せながら

『お引き取り願う!最後通告だ!』

と述べた。返事が無いので、念の為もう一回言っといた。

『最後通告だ!』

『(よしっ)』と、その場から去ろうとしたが、少し遠くから嫁さんにその姿を見られていた。そんな事をしている私をどう思っていたのだろうか。真意は不明だが、何も言わずに見ていた。大丈夫。僕は今日も元気です。

─翌朝─

起きてすぐに窓際に向かった。もはや日課となりつつある。

リビングに辿り着き、恐る恐るカーテンをめくる。なんていう所作は必要無かった。

だってカーテンの死角はおろか、窓際付近に沢山のアリが歩いていたんだもの。

そして私は思った。

『(最後通告しましたよね?)』

近くにいた嫁さんにも一応、確認してみた。

『俺、昨日最後通告してたよね?』

『してた』

『(嗚呼、残念だ)』

そう思いながら、私はアリメツにそっと手を伸ばし、準備を開始した。もう少し猶予を見ても良かったのだが、昨夜、侍の如く口上を述べたのだ。武士に二言があってはならないのである。

『(嗚呼、残念だ)』

もう一度、そう思いながら専用の容器に液体を入れた。この液体を摂取するとアリは召される仕組みだ。果たして効果はどれほどのものなのだろうか。複雑な胸中で容器を設置しその場を後にした。

─数時間後─

出先から家に戻り、一目散にアリメツの状態を確認した所、それはそれはエゲツない量のアリがアリメツに群がっていた。

これも複雑というか何というか、何分後に効力が発揮されるのかは分からないが、後々こいつらは動かなくなるのだろう。

それを見ていると、未来の死骸を見ている様な気持ちだとか、私の判断でそうしてしまっているだとか、別のやり方があったのではだとか、様々な感情が絡み合ってしまった。いわゆる良心の呵責(かしゃく)というやつなのだろうか。

いや、遭遇してからかなりの日数を不殺で過ごしたし、なんなら昨年の初めて遭遇した時から換算すれば約10ヶ月は猶予を持たせた。さらには侍の精神にのっとり、口上を述べた上でこういった対応をしたのだ。順番は間違えていないはずだ。

いや、そもそも順番や筋道の話では無いという事なのだろうか。命の話なのか、お別れの寂しさなのか、人類の図々しさなのか、何が引っ掛かっているのだろうか。

釈然としない気持ちのまま、ただアリの群れを眺めていた。

おわり

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