186.蛇と対峙した日
ある日の夜中、不思議な夢を見た。
柔らかな日差し。生き生きとした緑が生い茂る草原に私はいた。空は青く澄み渡り、透き通った風が吹く。非常に爽やかな景観。その中にある轍(わだち)に沿って歩いていた。
いつからいたのか、最初からいたのか分からないが、隣で嫁さんが一緒に歩いている。彼女は私に何かを話しかけ、それに相槌を打つ。緩やかに流れる時間。
穏やかな風景ではあるが、その中に少しおかしな点があった。やたらと蛇がいるのだ。黒、白、銀、金、様々な色の蛇がいる。"足元を埋める様にいる"というわけではなく、"道の途中に点々といる"という具合だ。
草むらから出てきて目の前を横断する蛇、顔を出しては引っ込める蛇、こちらを見るなり逃げる蛇、我関せず草むらの中で動かない蛇など、様々なスタイルの蛇がいた。
付かず離れずの距離感。敵意も感じず、恐怖心も無い。"ああ、蛇がいるなあ"程度の感覚だったが、少し遠くの方に雰囲気が違う蛇がいる事に気付いた。その蛇はなかなかの速度でこちらに向かってきている。その距離が近付くにつれ、他の蛇には感じなかった敵意の様なものを感じた。それと同時に"あいつは良くない"という気持ちが出てくる。その距離が5m〜10m程に近づいた時、私は気付いた。
その蛇は【ブラックマンバ】だと。
【世界最強の毒ヘビと評される危険生物。蛇界最速の速さで走る(時速16キロ)。マムシの毒の約60倍の毒。臆病だが、攻撃に転じた場合、どこまでも追いかけ、何度も噛みつき、相手が死ぬまで毒を流し続ける】
でお馴染みのブラックマンバである。
『(ままま、まずいっ!)』
穏やかな世界から事態が急変した。
どうする。逃げるか。いや、逃げたとて奴は早い。持続力もあっちが上だ。仮に私が逃げれたとしても、この娘(嫁)はどうなる。とにかくこの娘を守らなくては。
《セイブザ嫁》(save the yome)
のスローガンを胸に私はブラックマンバの前に立ち塞がった。凄い速度で奴はこちらに近づき、その距離が目と鼻の先になると、私の顔を目掛けてジャンプしてきた。
『ええええい!』
その瞬間、私は掛け声と共に何故か現実世界でも繰り出した事のない"裏拳"で応酬した。
振り抜かれた私の手の甲はブラックマンバ目掛けて美しい軌道を描き、それはそれは見事に奴の顔面を捉え、吹っ飛ばしたのだ。
『オラァ!!』
だが勝利の雄叫びをあげたその瞬間、夢から醒めた。
『(・・・ん・・暗闇だ・・蛇はどこに・・あれ?・・・)』
目の前は暗闇。現実と夢の狭間で一瞬の困惑が生まれた後、"夢を見ていた"と理解した。
と同時に気がついた。手に残る確かな感触。
私の手の甲は隣で寝ていた嫁の顔面を捉えていた。
夢の世界で放った裏拳を現実世界でも繰り出していたらしい。私の拳は時空を越えたのだ。手の奥には驚いた表情の嫁の目が見える。我に返った私は事態に気付き
『ああああ!ごめんごめんごめんごめん!』
と連呼する。幸い、殴るというより当たった程度だったので特に問題はなさそうだが、驚きながら嫁は声を発した。
『何?どうしたの!?』
《正しい》と思った。
正しい疑問であると。寝ていた所、裏拳で起こされてこの疑問を抱かない人などいないだろう。私は答えた。
『夢で蛇に裏拳出したら、実際に裏拳出してた!』
今振り返ると割とアホっぽい回答である。
『ふーん・・・』
そう言いながら嫁は寝てしまった。ひとまず大事に至らず胸を撫で下ろした。
私も再び寝ようと目を閉じたが、元々寝付きが悪いのに加え、先程の衝撃的な出来事によりすっかり眠気が失せてしまっている。私は目を閉じたまま、いつか訪れる睡眠を待ちつつ考え事をしていた。
夢の中で《セイブザ嫁》というスローガンの下、あの凶悪で有名なブラックマンバに一撃くらわせ、吹き飛ばす事に成功した。
か弱き娘の前に立ち、厄災を跳ね除けたのだ。誰がどう見てもその姿はセイブザ嫁。スローガンを全うしている。
だが一方、嫁を守る為に放ったその裏拳は時空を越え、保護対象だった嫁の顔面をしっかりと捉えた。軽く当たっただけとはいえ、接触は接触。
《結果的にこれはこの子を守ったと言えるのだろうか》
考え込んでしまった。
守ったのに守れてない。守れてないが守った。正命題、反命題のどちらにも証明できる矛盾、パラドックス。すなわち二律背反。哲学の領域に入り込んでしまっている。
脳内で繰り返す禅問答。頭を捻らせても正解など出てこない。だが、唯一答えを出す方法は知っていた。哲学者が何と言おうと、私がどんな答えを出そうと、その結果には抗えない。
《嫁に聞く》
これ以上の正解はないだろう。嫁はどんな結論を出すのだろうか。
翌日、私は嫁に聞いてみた。ここまで記したあれやこれ。果たして守れたのか否か。守れてないのか否か。どうなのだと。結果的にどう思うのかと。問うた。
すると嫁は答えた。
『知らない』
と。
《正しい》と思った。
おわり
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