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“ういきゅう”を食べた私は、死んだ父を少し近くに感じた

9月は父の誕生日があり、そして10月には父の命日がある。父が死んでから10年弱、毎年9月から10月にかけては父のことが頭をよぎる。

父が58歳でガンで亡くなった時、私は35歳だった。父と母は同級生でお互い22歳の時に結婚し、その後私が生まれた時点では母は23歳、父はまだ22歳のままだった。そんな若い親ということもあり、父と自分を同じ年齢で並べて比較するとその状況の違いが大きく、それを考えるのがわりとおもしろかったりする。たとえば今私は44歳だが、父が44歳の時にはその子どもである私は22歳(もしくは21歳)だったわけで、もし今私に22歳の子どもがいることを想像するとなんとも不思議な気持ちになる(ちなみに私の子どもは小学生と幼稚園児だ)。また、父が22歳の時に私が生まれているので、44歳の私は22歳の子どもがいても、さらには孫が生まれていてもおかしくないことにも気付く。

こういった数字遊びは意味のないようにも思えるが、肉親の年齢を比較対象とすることで、案外自分が置かれた位置を確認したり振り返ったりするきっかけにもなる。当然、死者は年齢を重ねないので、私と父の年齢差は毎年1歳ずつ縮まっていく。父の年齢にだんだんと近付いていることが、私に生の実感を与えてくれたり時間の大切さを教えてくれたりもする。

と、ここまで書くと生前の父と私は良好な関係だったと思われそうだが、実はそんなこともなかったりする。正直なところ父とは本音で語り合ったような思い出はなく、人に語るような特別なエピソードがあるわけでもない。親子だが互いにどこか遠慮し合っていた感じがある。2人きりになると会話は弾まず、よく沈黙が続いた。それは地元の佐賀にいる頃もそうだったし、私が大学進学で関西に出て以降、帰省の度に会っても変わらなかった。嫌い合っているというわけではないが、仲がいいかというと疑問である。何より父がガンと聞いた時も、病院のベッドの上で息を引き取ったと知った時も、私は一度も泣くことはなかった。

自分の中で父という存在の重さをいまいち掴み切れないのだが、それでも父が死んでしまってからは毎年、誕生日や命日が近づくと父のことを考えている。そして今年はそのタイミングで行こうと思っている場所があった。

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数ヶ月前に雑誌に載っていた「切通し進々堂」の“ういきゅう”を目にした時、私は既視感を覚えた。しばらくして、それは昔父が作ってくれたサンドイッチに似ているからだと思い当たった。

“ういきゅう”の正式名称は「上ウィンナートースト」で、焼いたトーストに赤ウインナーときゅうりがサンドされているものだ。具材のウインナーときゅうりの頭文字を取って“ういきゅう”と呼ばれている。京都・祗園にある「切通し進々堂」の名物であり、「上」がつかない「ウィンナートースト」はきゅうりが入らないらしい。私が小学生の時、めずらしく父がキッチンに立ってこの“ういきゅう”と似たものを作ってくれたことがあった。

その日、何が原因だったのか母は朝からずっと怒っていて父に激しく言葉をぶつけていた。当時、こういった光景は我が家ではおなじみで、父と母はよく揉めていた。揉めていたと言っても父の方は何か反論するわけではなく、じっと聞いているだけで、母が一方的に父を責め立てているばかりだった。当時の母は子どもの私から見ても激しい気性だったのだがそれでも常識的な人間ではあり、彼女が怒るのはそれに値する理由があったからだった。しかし、それでも放たれる言葉は強いものであり、私は「お父さん、かわいそう…」という風に感じていた。

そのような私の心の動きを察してか、その時の母の怒りは父だけでなく私にも向かった。私も2歳下の弟と比べると母を怒らせることが圧倒的に多く、母がきつめに私を叱るのもめずらしいことではなかった。しかし、母はよほど怒りが収まらなかったのか、後にも先にもこの時だけだが弟を連れて車で出ていってしまった。母が泣きながら「あんたとお父さんはよう似とるよ」と言っていたのを今でも鮮明に覚えている。当然それは悪い意味でのことだった。人の話を聞かない、まわりのことを考えない、生返事でごまかす、怒られてもヘラヘラしているだけ…。私と父に共通するそういった面が母を苛立たせていたようだった。

家に残された父と私は長い間、何も喋らなかった。壁に掛かった時計の秒針がカチッ、カチッと重たく、ゆっくりと響いていた。私はその間、「お母さん、もう帰ってこんかもしれん…」と悲しい気持ちになった。その一方で「ファミコンしたら怒らるっかな?」とか「公園くらいは行ってもよかとかな?」とか、そういったことを考えていたので、母の怒りも当然なのだと思う。長く続いた沈黙を打ち消したのは、情けなく響いた私のお腹の音だった。

「お腹空いたとね?なんか作るけん、ちょっと待ちんしゃい」

そう言って父はキッチンに立った。父が料理することはそれまでなかったので、私も横に並んでその作業を見ることにした。冷蔵庫を確認してもいまいち品揃えが悪いようで、考えた末に作られたのがサンドイッチだった。その中身はきゅうりと焼かれた赤ウインナーで、母が作るサンドイッチと違って形は歪だし、ハムではなくて赤ウインナーが使われていることにも違和感を覚えた。

だがそれが抜群においしかった。お腹が空いていたのと、父が初めて私のために作ってくれた料理ということもあって、当時の私の中でバイアスがかかっていた気もするが、それは本当においしかったのだ。おかわりを欲しがる私に、父は自分用に作っていた分をひと口も食べずに丸々くれた。

記憶にあるそのサンドイッチを雑誌に載っている“ういきゅう”と比べてみると、父が作ったものはパンの耳は切り落とされずに残っているし、トーストもされていない。写真ほど立体的でかわいらしいビジュアルではなかったし、中心に垂直に通されるシンボリックな爪楊枝もなかった。比べると違った点が目立つがそれでも赤ウインナーときゅうりを使ったサンドイッチということは共通していて、私は誌面を見た時に「父が作ってくれたサンドイッチだ」と認識したのだった。そして今年の父の命日が近付いたら、それを食べに行ってみようと思った。

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私の弟が大学を卒業してしばらくした後、母からの電話で父が家に戻らなくなったことを知った。その時、父は46歳か47歳で、私は24歳くらいだったと記憶している。私も弟も高校を卒業すると地元を出て関西の大学に進学した。弟は大学卒業後に九州に戻ったが実家とは離れた場所で生活を始めた。私は大学以降も関西に残り、今は京都で暮らしている。当時実家には父と母の2人だけがいて、そこから父が出ていったのだった。

父が家を出た理由は不倫である。何年も前から愛人がいたそうなのだが、母はまったくそのことに気付いておらず、彼女にとって父が家に帰らなくなったことは青天の霹靂というほかなかったようだ。このあたりの詳細を語ると長くなるので端的に事実を並べるが、父が帰らなったことで母がうつ病となってしまい、それが寛解するまで数年を要した。私は母から目を離すことができず大阪で同居することとなり、その期間は10年ほど続いた。父と私は話し合いの場を持ったが父の意思は固く、母の元に戻るつもりはないとのことだった。離婚届の提出は保留され戸籍上の婚姻関係は数年間はそのままだったが、しばらく続いていた母への仕送りは途中からなくなった。前述の話し合い以降、父と私は長い間会うことはなかったが、父がステージ4のガンになったために再会することとなった。その後、父の体調はいったん持ち直すも再びガンの転移が見つかり、けっきょくは58歳で帰らぬ人となった。母は父が家を出てからは一度も父と会うことはなかった。

私は父がガンになったと聞いてから何度か父と会った。いつか会った時に父が「ガンが嘘やったように今は体調は良かよ」と話していたので、それなら良かったと呑気に構えていた。だがそこから1、2年ほど後に父の兄にあたる伯父からの電話で、父がガンの転移で弱っていることと、私に会いたいと言っていることを知り、そう長くはないのだろうと察した。

最後に私が父と会ったのは、伯父からその電話を受けた数日後、父が入院している佐賀の病院でだった。秋口の夕方、病室に差し込む西日がまぶしく輝いていた。窓の外では木々の緑がサラサラと揺れていて、室内は薬品と飾られた花と人の生活とが混じり合った独特の匂いがした。6人部屋には父のほかに5人が閉ざされたカーテンの向こうにいるようで、確かに人の気配はするのだがとても静かだった。ベッドに近付こうとする私を見つけた父は、寝たままニコリと笑った。ベッドの上半身部分をリモコンで起こすと、ベッド横の丸椅子に腰かけた私と目線の高さが合った。父は髪が抜け落ちた頭部を隠すためニットキャップを被っていた。その体はひどく痩せ細り肋骨が浮き出ていた。肌は艶がなく、声はかすれていて聞き取りづらかった。

「ああ、この人はもうすぐ死ぬんだな…」

私は自分でも驚くほど冷静にそう思った。そこに悪意はなく、死の影が色濃く出ている父に対して負の感情は抱いていなかったし、その代わり同情もなかった。私は父に覆い被さる死の気配を否定せずに、ただそのまま認めた。父も自分の死を受け入れていたように思う。

この日の数週間前、私は京都で結婚式を挙げていた。式や披露宴に父は呼んでおらず、そもそも結婚したことも伝えていなかった。なので、その場で父に結婚報告をすると、父は私の妻や結婚式のことを知りたがった。写真を見せながら話すと目を細めて喜んでいた。私の結婚は父の末期ガンとはまったく無関係で偶然時期が近かっただけなのだが、最後にこの話をできたことは今でも良かったと思っている。

病室を訪れて1時間ほど経ったところで、父に疲れが見え始めたので私は引き上げることにした。

「じゃあ、また来るけん」

私がそう言うと父は声が出ないのか手を上げて応えたが、再会が叶わないということは互いに分かっていた。

その日から2週間も経たないうちに父が亡くなったことを伯父から聞いた。私はその報せを受けても涙を流さなかったし、父の葬式にも出なかった。

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父の死から10年目となる今年、その命日の数日前に「切通し進々堂」に行ってみた。昔から舞妓さんがひいきにする喫茶店はメディアでもたびたび紹介されているそうで、緑色や赤色をした鮮やかなゼリーも有名みたいだったが、私はもちろん“ういきゅう”を注文した。

店内には舞妓さんの名前が書かれた京丸うちわがズラリと飾られている。一人客ばかりで私を含めて6人。半分が常連客でもう半分が私のような一見さんのように見えた。店員は常連客と親しげに会話しているが排他的な気まずさはなく、むしろ客全員がその話に耳を傾けていた。

「ほらこれ、天神さんとこで買おてきたちりめん山椒。おみやげに」
「あら?この前、おんなじのんくれたやん。これもろたで」
「え、嘘やん。ほな、もっかいもろといて」
「ええのん?得したわー」

そんなやりとりの中で私の手元に“ういきゅう”が運ばれてきた。雑誌に載っていた通りの素敵なビジュアルで、まずこの佇まいがいい。そして、その味は想像していたよりも随分とおいしかった。塩っけがあって歯応えのあるきゅうりとチープだけど食欲をそそる赤ウインナー。対比的な食感を持つ2つの具材をきつね色にトーストされたサクサクの食パンが受け止める。食パンに塗られたバターが味にまとまりを与えていて、とてもバランスが取れているのだ。

“ういきゅう”を食べてみて、あの時父が作ってくれたものとはやはり全然別物のように思えた。“ういきゅう”は簡単な具材で作られながら、絶妙なバランス感覚でクセになる味わいを形成している。素人が同じ具材を使ったからといって、同じ味にはならないのだろう。だが、それでも自分の中であの時の父のサンドイッチが色褪せることはなかった。思い出補正とはいいものだなと私は自嘲した。

会計をしていると、レジ奥のキッチンで女性スタッフが“ういきゅう”を作っていて、それをぼんやり眺めながら思い出したことがあった。あの時、私は父の横に立って見ていただけではなくて、父と一緒にサンドイッチを作ったのだった。初めて包丁やフライパンを使わせてもらい、父が私の背後から手をまわして作業を手伝ってくれた。結局ほとんどの作業を父が行なったようなものだが、それでもサンドイッチができたら父は私を褒めてくれたのだった。

当時の私がおそらく6歳くらいだったとして、そうすると父は28歳くらいだったことになる。28歳の父は母が出ていったために私と2人で料理をしていて、28歳の私は父が出ていったために母と2人で暮らしていた。

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我が家の長女はよく妻から叱られている。人の話を聞かないし、まわりが見えていないといった理由で。私もいまだに似たようなことで妻から小言を言われるので、こういった場面になる度に「3代続く血だ」と苦笑いしてしまう。

そんな娘がある夜、私の腕の中で眠りにつこうとしていた。就寝時、彼女は必ず私の布団の中へと潜り込んでくる。そして私の体の前面に自分の背をくっつけた状態で私の手を引っ張り、私の腕で彼女の体を包み込ませる。この体制が安心感を与えるのだろう。しばらくして自分の布団に戻る時もあれば、そのまま寝てしまう時もある。この日は後者だった。

目が慣れた薄闇の中で娘の呼吸を感じながら、ふとあの時父と一緒に料理をした自分も今の娘と同じくらいの年齢だったことに気付いた。娘の横顔を見て、こんな小さい頃のことも案外覚えているもんだと我ながら感心するのと同時に、もしかしたら娘が今この瞬間を大人になって思い出すかもしれないとも思った。そう考えると胸のあたりがほんのり温かくなった。私は大人になった娘を思い浮かべる。それが20歳だとするとあと14年後。私は58歳になり、父が死んだ年齢と並ぶ。

私は目を瞑り、あの時のことを考える。初めて包丁を使って物を切る感触を、油がパチパチと水分を弾く小気味いい音を、なかなか振ることができないフライパンの重みを。緊張する私を大きくて優しい手が後ろから支えてくれる。ちょうど今の私と娘のような形で。

「パパ、おやすみ」

まどろみの中で聞こえるその小さな声は、娘のものかもしれないし、あの時の自分のものかもしれない。

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