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京都嫌いの妻と、京都に暮らして考えたこと

「京都のこと、ぜんぜん好きちゃうし。むしろ嫌いやし」

妻と付き合い始めのころ、京都出身の彼女がこんなことを言っていて少々面食らった。

「京都言うても地元は長岡京やけど…」

長岡京は京都市と隣接する場所で、京都や大阪の中心地へのアクセスも良く、京都府版の住みたい街ランキングでも目にしたりする。当時の私は長岡京に対してその程度の知識は持っていたが、実際には訪れたことがなく、妻が言う「京都言うても地元は長岡京やけど…」の意味するところがよくわからなかった。

あとになって理解したのが、京都の人は京都市の、とくに碁盤の目の中である洛中と呼ばれる市街地(かつての都)しか「京都」として認めないらしいということ。その意識は妻にもあるようで前述の言葉に繋がっていたようだ。

親との関係性がよくなかったり、友人・知人との間でトラブルがあったなど、その地元嫌いには何か複雑な原因があるのかと思い理由を尋ねてみると、驚くほど拍子抜けする答えがあった。

どうやらそれは彼女の西洋文化に対する憧憬が起因しているようで、要するにファッションや装飾品、グルメにアートに建築、家具や食器などの生活雑貨、思想や姿勢におけるまで、とにかく西洋のものが大好き。それらのことを考えるだけで胸がときめくし、実際に物を手にすると幸せな気分で満たされる。歴史ロマンあふれる洗練された文化を直で感じるために、ヨーロッパ圏のほぼすべての国は訪れているし、2回の語学留学だってした。なのに何でよりによって自分はその対極にある、和の象徴ともいえる京都で生まれ育ったのか、しかもちょっと外れにある場所で。それが残念でならない。簡単に言ってしまえばそういった類のものだった。

はるか遠い異国の文化に羨望のまなざしを向けることはいいとして、それが京都を嫌う理由にはならないのではないか。京都も当然だが歴史深く洗練されている。どちらも独自の発展を遂げていて比べること自体がナンセンスなのである。その時もそんなことを言った気がするが、私の意見は彼女にはまったく受け入れられることはなかった。理屈ではなく敬服にさえ近い気持ちが、京都を毛嫌いする方向へと向かわせていたのだった。

極めて日本人らしい西洋文化へのコンプレックスと、京都郊外の人が持つ京都中心地へのコンプレックス。その二重構造によって彼女の「京都憎し」の思想が作られている気もしたが、そのことには触れなかった。

そんな風にいくらか偏屈な考え方をする彼女と私は、その後紆余曲折ありながら結婚し、さらにその数年後に子どもを2人授かった。ささやかながら幸せと呼べる日々を送っているが、現在、我々4人の家族がどこで暮らしているかというと、ほかでもない妻の地元である京都の長岡京なのだ。

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なぜ長岡京に住むに至ったかというと、長女の幼稚園がきっかけだった。

結婚してからは大阪市内の分譲マンションに住んでいたのだが、「いずれは一軒家への住み替えを」とぼんやり考えていた。2人目の子ができたと分かったタイミングで、街なかのマンションに居続けるより郊外でも一軒家に移る方が、子ども部屋の確保や車の置き場の面でもいいだろうという判断から、転居の意欲がむくむくと沸き立った。

手始めに大阪の北摂地域で物件を探したのだが、いまいちピンとくるところがない。そもそも北摂に縁もゆかりもなく、どうも自分たちが暮らす姿が想像つかない。知らない土地の物件を手当たり次第に見ていってもキリがなく消耗する一方とわかったので、少し冷静になって考えることにした。

郊外に移るとして一番得策なのは親元付近に住むことではないだろうか。私の地元は九州なのでそれが叶わず、妻の地元であれば私が仕事の拠点としている大阪へのアクセスも悪くない。というかコロナ禍でほぼ在宅での仕事で、今後もそのスタイルが続くことを考えると、大阪から幾分距離があっても問題ない。まだ幼い長女とこれから生まれてくる長男を育てるのに、親の力を頼れたらありがたいし、将来の介護のことを考えてもある程度近くにいるのがいいのではないか。つまりは転居先を大阪でやみくもに探すよりも京都方面であたってみてはどうかと、私から妻に提案してみた。

その提案を聞いた妻は予想通り難色を示したが、この時点では物件探しで手詰まり感があったのと、何より長女の幼稚園入園が迫っていて時間の猶予が残されていないことから、渋々了承する形となった。

幼稚園については、まずは大阪のマンション付近で通ってもらい、転居先が決まって引っ越しができたら新居近くの場所に転園したらいい。当初私はそう考えていたのだが、それを妻は断固拒否した。幼稚園児であっても友人はできるし、離れ離れになるのは寂しいものである。とくに女の子はその辺りが敏感だし、少なくとも自分はそうであったと。私自身は幼稚園時代のことなんてまるっきり覚えてもいないのだが、おそらく妻の言い分が正しいのだろうと、その意見を尊重することにした。

ただ、やはり妻はたとえ京都であっても長岡京へのUターンだけは望んでおらず、そこから少しでも離れたところに居住することを希望していたので、京都市内で検討することになった。

そうして改めて物件探しを始めるが、そこでも目当てに叶うものが見つからない。わざわざ大阪のマンションから引っ越すのだから、狭小ではなく幾分広めの土地というのが家探しの第一条件であり、そうすれば京都中心地などは手が出せない金額になる。京都市内でもいくらか外れれば現実的な価格になってくるのだが、それだと親元へのアクセスが悪くなる場合が多く、大阪に住んでいた以上に妻の実家が遠のいてしまう。

そんななかでもいったんは桂で土地を抑えるところまでいった。桂は京都市西京区に位置していて有名観光地である嵐山と近い場所。ちなみに西京区は洛中ではなく洛西にあたり、京都人の言う「京都」からは外れているエリアになるが、長岡京からは数駅の場所で宅地としても人気があるので、悪くない選択ということで不動産会社と購入に向けた手続きを進めていった。「ようやく決まった」と胸をなでおろていたのもつかの間、土地の売主側に気持ちの変化があったらしく、話自体がなかったことに…。

家を購入するという行為はとてつもなくエネルギーを要する作業である。人生における一番大きな買い物であって、絶対に失敗したくないから過剰に情報を集めるし、時間と労力とお金を使って現地まで何度も足を運ぶ。検討に検討を重ねて、完璧とは言えずともようやく見つけた「ここなら…」という落としどころ。それがなかったことにされたときの喪失感といったら、それはもう…。

そうやって一度は決まりかかった話が白紙になったあとも、意気消沈しながら物件探しは続けていた。半ばあきらめ状態にもなりかけたときに目に留まったある物件。価格としては少し強気ではあるが土地の広さはそこそこ。子ども部屋はそれぞれに与えられるし、設計次第で私の仕事部屋も作れる。駅からも遠くなく、まわりの環境も静かとの評判で子育てもしやすそう。ハザードマップで見ても問題はなく、我々夫婦が考える条件にマッチしている。ただ1つ、それが長岡京にあるという点を覗いては。

そこからの妻の葛藤は容易に想像がつくと思うが、結局これ以上探しても幼稚園入園までのリミットに間に合わないだろうし、もたもたしているとここも他人に購入されてしまうということで、長岡京のその場所、つまり我々が今住んでいるところに決めることにした。

妻の両親はその決定を大いに喜んだし、想定以上に親元が近くなったことで私も心強く感じられた。ただひとり妻だけがスッキリしない顔だったが、それでもようやく住むところが決まって内心はホッとしていたことだろう。

その後は今思い出してもめまいがしそうなほどの怒濤の日々が続いた。購入する物件の契約、大阪のマンションの売却、間取りや内外装など細かな建築設計の打ち合わせ、幼稚園の手続きに引っ越しの準備、出産に向けた病院通いなどなど。小さな子どもを連れながら、大きなお腹の妻と私は各所での用事を我慢強く済ませていった。

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「ほんまに素敵ですね…」

ため息混じりにその女性は言った。マンション売却のために見学希望者の内覧対応をしていた時のことだ。売却するまでに7、8組ほどを部屋に招いて見学してもらったのだが、その中のある女性がやたらと部屋を褒めてくれた。

そのときには妻は出産のために長女と一緒に実家のお世話になっていて、私もほぼ妻の実家に寝泊まりし、内覧など用事があるときだけ一人で大阪に戻る生活をしていた。家財はあれど人は住んでおらず、また細々とした生活必需品は実家に運んでいたので、それが生活感を打ち消すこととなり、その女性の目にはモデルルームのような非現実的空間に映ったのだと思う。

女性の関心は部屋だけでなく、妻がこだわって購入した家財にも向けられていた。ヨーロッパ製のそれらは日本のものよりも大ぶりでマンションには不釣り合いに思えたが、なるほど確かに、素材の良さやディテールまでこだわった作り込みには目を見張るところがあった。

妻は自宅を彩る何かを買い足すたびに、「これは今こういう人気があって~」「このブランドにはこういうコンセプトがあって~」とうれしそうに説明してくれるのだが、「へぇ」「ふーん」と適当な相槌しか返さない私との会話は盛り上がることなく低空飛行を続け、最後にはふっとその消息を絶ってしまう。だが、それでも彼女はおかまいなしに話を続けるのだった。

きっとこの女性とであれば妻の話も盛り上がるのだろうな。そんなことを思いながら、壁に掛けられたアートパネルを見ている女性に、「妻の趣味なんです」と説明した。

結婚後すぐに購入したそのマンションは、その後の地価の高騰もあって売却額は購入額よりも高くなった。さほど広くはなかったが、長女が生まれ、そして2人目となる長男が生まれる直前までの5年間を暮らす分には問題はなかった。大阪の繁華街である梅田から近く、また上層階だったので眺望もよく、自分で言うのも気恥ずかしいが都会的な暮らしだったと思う。

妻はそこに自分の好きなものを詰め込んでいった。機能的ではないが装飾が美しいアンティーク風の家具に、ツルリとした感触の食器と重厚感あるカトラリー。また身に付けるものにもこだわりがあって、バッグ、靴、アクセサリーは何よりも大切に扱われていた。そこには和的な要素が介在する余地はまるでなかった。夫の私から見てもドラマや雑誌の中で見るような空間だと半ば呆れながら見ていた。もはや執着のようにも思えたがそれほどまでに好きなものがはっきりしている彼女を、少しうらやましく思うこともあった。

しかし残念ながら彼女が理想とする暮らしもずっとは続かない。子どもが増えるのは夫婦にとって最もプライオリティの高いことだったので、手狭になってしまうそのマンションを手放すのは名残惜しいが、それもいとわない。幼稚園入園に出産と現実が次々と押し寄せるなかで、ようやく見つけた新生活への足掛かり。しかしそれは地元に戻るという条件付きのもの。妻は葛藤の末、けっきょくは何かを捨てなければ何かを手にいれられない、そんな摂理を受け入れるほかなかった。

今思えば、妻は「京都が嫌い」「地元が嫌い」というスタンスを取ることで、それとは対極にある場所へと近づけると感じていたのかもしれない。日常にあるものに迎合せず逆張りを続ける。単純で極端で偏っているが、ある意味において純粋なそのエネルギーがゴムパチンコのようにグーッと伸ばされ、やがてそれは放たれ彼方へと飛んでいく。歩いてきた道を蹴り上げることが、自分を高い場所に届けてくれると思って。そうやって朧げに見えてきた彼女のユートピア。

しかし、現実という強力な引力によって引き戻されてしまう。一度は乗ったはずの理想へのルート。そのルートは動く歩道のように妻を乗せて進んでいたが、なぜか過去に決別したはずのルートと交わってしまう。2つのルートは並行して進み、しばらく先で再び分岐となる。状況的にもう一方のルートに乗り換えることを迫られ、渋々そちらに足を伸ばす。分岐点を過ぎ、2つのルートは離れていく。降りてしまったルートには妻が作り上げた生活が乗っていて、それはもうずっと遠くに行ってしまった。彼女が立っているこのルートは、彼女をどこに連れていくのだろうか。

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長岡京へ越して3年以上が経ち、長女は小学一年生に、無事に生まれた長男も幼稚園の年少になった。そして、私は長岡京という街が好きになった。

引っ越してからは長岡京内を散歩するのが日課となった。人口8万人ほど、京都府内ではお隣の向日市に次いでコンパクトなこの街は、交通の便がいいわりに人口密度は高くなくて住みやすい。観光資源もそこそこあるのだが、インバウンド需要の恩恵はさほど受けていないように見える。

また長岡京は「西山」という地域に属している。京都観光の起点となる「東山」や、高級な宅地として憧れられる「北山」は有名どころだが、「西山」となると京都の人でもパッとイメージはできないようだ。しかし静かで自然が多く残り、タケノコの産地としても有名で、市内のいたるところに竹林が広がる。私の家も竹林に面していて、リビングからの借景はなかなかのものだ。

派手さはないけど歴史深く、じんわりとした確かな魅力がある。宣伝下手でいまいち知名度が上がらないが、それが逆に誠実な街という印象を抱かせる。

歩くと当然いろいろなものが目に入る。早朝からひたすらダシ巻きを焼き上げている鶏卵店、自宅を改装して対面窓で菓子やベーカリーを販売する女性、自家焙煎でもくもくの煙を立てる純喫茶、急階段の先にある見晴らしのいい神社、立派な造りなのに人が全然いない城跡公園や古墳公園、スマホの電波が届かないキャンプ場、かがまないと通れない小さなねじりまんぽ、誰ともすれ違わないプライベート竹林道…。

散歩だけでなく、道中で見つけたそれらを妻に伝えることも日課とした。彼女は案の定、地元の知識をほとんど持ち合わせていなかったので、どれもが新しく知ることばかりだった。最初は反応も薄かったが、今では関心を示すことが増えてきた。3年以上もこんなことを続けた理由として、単純にささやかな街の魅力を探すことが楽しいということと、あとは妻が幼少期から過ごした街や歩んだ道を、彼女に変わって肯定したいという気持ちもあった。

日々の生活や家の中の様子は目に見えて変わった。ヤンチャな年頃の子どもが2人となると、転居前のような飾った日常にはならない。繊細な家具や食器類は彼らの手によって傷つけられ、次々と質素で機能的なものに買い替えられていった。アートや花を飾る余裕はなくなり、絵画も花器も固く閉ざされた屋根裏へと追いやられた。自慢の装飾品類はお披露目される機会がめっきりとなくなった。妻の関心は暮らしに彩りを与えることよりも、学校行事やPTA、子どもの発育などの現実的な問題の方に向かうようになった。

4月のある日、私は自宅からすぐの長岡天満宮にいた。この神社の前庭として八条ヶ池がある。土地を潤す灌漑用水が貯められていて外周は1kmほど。その水上に迷路のように張られた回廊式の橋があり、中心に六角舎と呼ばれる東屋のようなものが設置されている。私はこの場所からの眺めや風の抜け具合が好きで、散歩の途中によく立ち寄り、何をするでもなく座ってぼんやりしたりしていた。この日もそうしながら真っ赤に広がるキリシマツツジを眺めていた。

長岡天満宮はキリシマツツジの名所で、サクラが散ったあとも人を集めている。葉が見えなくなるほど密集して咲く花びらの彩度は高く、エネルギーに満ちた赤色が膨張し神社を飲み込んでいく。天満宮の入り口である大鳥居から境内に向かう道中が一番の見どころで、六角舎からそれを見ていたのだった。

しばらく眺めたあと、私は八条ヶ池を回り込み大鳥居の前に立った。そしてその鳥居をくぐって境内の方へ歩いてみた。圧倒的存在感を放つ花の集合体が作る、真紅のトンネルの中をゆっくりと進む。しばらく歩いてから振り返ってみる。真っ赤な花の向こうに鳥居があり、その鳥居の向こうには真っ直ぐな一本道が続いている。それを見ながら、妻が歩いてきた道は今こうしてこの赤く輝く道に繋がっているのだと思った。乳白色をした淡い理想は手の中からこぼれ落ちてしまったけど、代わりに力強くてはっきりとした手触りのある現実がここにはあるのだと。

私は再び体の向きを変えて境内の方へと進み、その先にある我が家へと向かった。そして、この燃えるように美しい花のことを妻に話そうと思った。

私は長岡京という街が好きになった。この街の良さを地元民の妻に教えながら暮らしを楽しんでいる。そういえば妻の口から「京都が嫌い」「地元が嫌い」という言葉を、ずいぶん長く聞いていない気がする。

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