【hint.109】言葉のもつチカラ
おはようございます。東京・吉祥寺を拠点として活動している、山田 鷹(やまだ たか)です。
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なにか、久々にしっかりと自分の感覚を、文章へとしたい気持ちになっている。
僕がいわゆる「しっかり記事」と呼んでいるものなんだけど、それっていうのは、「頭のハジっこからちょっと真ん中へ」というイメージとでも言えばいいのかなぁ。
ある出来事などをきっかけとして、「あっ、これってこういうことかも」とか、「これ、こう考えたらオモシロ〜」とか、そういったものって、その瞬間はけっこう大きなエネルギーで頭の中を占領して、楽しませてくれるんだけど、なかなか必要に迫られるでもない限り、そのまますぅ〜っと、頭のどっかハジっこの方へと追いやられてしまう。
なにか新しい次の刺激が自分の中に入ってくると、すぐにそっちに頭の真ん中を譲り渡して、自分はハジっこへとお引っ越し。
そんな「ハジっこ案件」を、ちょっと「真ん中案件」として取り上げてあげることで、なんというか「丁寧に生きる」というか、「自分を大事にしてあげる」というか、自分をオモシロがったり、自分をヨシヨシしてあげるような感覚になるんだと思う。
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台風が関東に接近してきている。
昨日テレビのお天気コーナーで、ちょうどどこかの海が「中潮」になるタイミングで台風が上陸することになる、ということを伝えてくれていた。
その話の流れで、確かキャスターの方が、
その後は「大潮」になるので、ちょっとでも台風の進み方が遅れると・・・
と、「高潮への警戒をより高める必要がありますね」風なニュアンスのことを伝えられていたのだが、僕の注意をひいたのは、その後に続いてお天気解説者が話されたことだった。
「中潮」「大潮」って分けてはいますけどね、ここまでが「中潮」で、ここからが「大潮」って、(時間的に)急に変化するわけではないんです。 徐々に変化していきますから・・・
これって、言葉のもつチカラのメリットとデメリットが現れてるな〜と。
「中潮」「大潮」と、言葉を使って区別することで、その言葉の意味・概念を理解している人同士では、注意を向ける程度を変えたり、具体的な準備・対策を分けたりするなど、自分以外の人とも(ほぼ)同じ「考え」や「行動」をとることが容易になる。
しかし一方で、「中潮」「大潮」という言葉を使った瞬間から、その人はだんだんと海の細かな変化、一瞬一瞬の変化というものに対して意識を払わなくなっていき、
たとえば「ここからここまでは『中潮』」などと、しばらく目にする、まったく同じものは存在しないはずのもの・出来事を、すべて同じ「中潮」という括りをもって、見る・感じる、そして判断し自らの言動へとつなげるということになっていく。
「中潮」と呼ばれている「11時27分」の海の様子と、「11時32分」の様子は、「同じ」ようでやっぱり全然「違う」ものなんだろうけど。
人はいろんなものに「名前」をつける。「言葉」を与える。
「名前」「言葉」を使ったその瞬間から、よ〜く感じると「同じものではない」何かを、まるで「同じもの」として扱うことが始まっているんだよね。
これにはメリットとデメリットがあるんだってことなんだよね。
あのお天気コーナーのひとコマに、そういったものを感じたのでした。
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