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「自分の〇〇ができなくて」という言葉

主にスポーツ選手が試合後のインタビューで使う「自分(たち)の〇〇」という言葉。
自分の相撲、自分のマラソン、自分たちのサッカー、など。
この言葉にはいつも微かな違和感を覚える。特に悪い結果の時に「自分の試合/プレーができなくて…」という感じで使われていると。

言わんとしていることは分かるが、この言葉って具体的に伝えることを放棄した結果ではないかと思う。
具体的に伝える、それは例えば「自分が持っている力を最大限発揮することができず、思い描くような試合運び/プレーができなくて」といったところか。
それが短くなって「自分の試合/プレーができなくて」になったのだと思うのが、何か聞いていてモヤッとする。

勉強や仕事にしても、穴をつかれること、思いもしない方向に事が進んでしまうことは往々にしてある。十分に対策したつもりであってもそうなってしまうことはある。
しかし、親や先生や上司や仕事相手に原因を問われた時、「自分のテストができなくて」とか「自分の提案ができなくて」なんて言っても、通じない。
遅刻した時に「自分の通勤ができなくて」なんて言ったら、もう明日から来なくていいと言われるかもしれない。

だから、スポーツ選手であっても一般人であっても、その立場にいる人(要はプロ)であれば、ちゃんと具体的に説明しなくちゃいけないんじゃないかなぁと思う。

なぜこんなことを思っているのかというと、ある日のこと。

朝、私は無事自分の通勤をして出社したのだが、その日はけっこう大変な日だった。今日はこれを終わらせようと思っていたことがあったのに、緊急の対応が立て続けに起こり、電話やメールや諸々に応えていたら、気づいたら夕方になっていた。定時を迎える頃にはもうヘトヘトで、残業をしたものの、その日は自分で決めたノルマは達成できなかった。
(こんなことってよくあるし、繁忙期にはこういう日の方が多いだろう。)

帰り際、私は隣の同僚に「今日は自分の仕事ができなかったな」と漏らしたのだが、言った途端に何か恥ずかしくなった。

だって今日バタバタしながらやったことも仕事だったから。

自分の中で予定を立てていても、その緊急案件が自分や所属チームの主管であれば、それは立派な「自分の仕事」なわけだし、傍から見たらその日私は自分の仕事をしていたのだろう。
つまり、この「自分の〇〇」って本人にしか分からないものすごく主観的な言葉で、他人に言うものではないと思う。

もうここまで頻繁に使われていると、一つの表現、というか一つの概念として確立されているのかもしれないが、スポーツ選手にも「自分の〇〇」という言葉に気持ちや経緯を集約させないでほしいなぁと思う。

「(対戦型スポーツの場合)相手がこういう出方をしてくることが想像できなかった。それが今後の課題だと気づいた」とか、もしくはシンプルに「今日は自分の方が弱かった」と言った方がまだ言葉として第三者にも伝わる気がする。

まぁ試合後に、特に負けた後に、明確な気持ちの表現を求めることは酷かもしれないし、そういう詳しい分析は解説員の仕事なのかもしれないけど。