【1986年】語り継がれないDCブランドブームの格好良さと、実は優秀だったビジネスモデル。
「山田耕史のファッションノート」第1弾では、第二次世界大戦後から1980年代初頭までの日本経済についてご紹介しました。
そして、前回の第3弾では1989年のバブル崩壊から、1997年のアジア通貨危機までの日本経済をご紹介しています。
今回ご紹介するファッションアーカイブは「ホットドッグプレス」1986年5月10日号。
1980年代後半の日本経済というと、バブル景気のイメージが強い時代ですが、本格的にバブル経済が始まったと言えるのは1988年から。
そして、そのきっかけとなったのが1985年のプラザ合意でした。
今回は1980年代前半から中盤にかけての、バブル景気前夜の日本経済についてご紹介します。
「ナンバーワン」の日本経済がもたらす豊かさ
1979年に発売された書籍「ジャパン・アズ・ナンバーワン」に象徴されるように、圧倒的な力を誇っていたアメリカ経済の脅威となるくらいの成長を遂げていた1980年代の日本経済。
それを象徴するのが、1983年の東京ディズニーランド開園と、任天堂の家庭用ゲーム機ファミリーコンピュータ、ファミコンの発売でしょう。
1983年に内閣府が実施した「国民生活に関する世論調査」では、「今後の生活の力点は何か」という問いに、それまで長年首位だった「住生活」に代わり「レジャー・余暇」がトップになります。
発売当初のファミコンは大ヒットとは言えない状況でしたが、1985年に発売されたソフト「スーパーマリオブラザーズ」で一大ブームを巻き起こしました。
余談ですが、我が家にファミコンが来たのは1987年の正月。ソフトは「サッカー」と、そしてやはり「スーパーマリオブラザーズ」でした。
更に余談。僕の父は京都にある大学に通っていたのですが、就職活動をしていた頃に京都の企業である任天堂からお誘いがあったそうです。
ですが、当時の任天堂は花札とトランプの会社としか認識されていなかったため、父はそのお誘いを断り、別の会社に就職しました。
そのエピソードを聞いた子供の頃の僕は、「もし父が任天堂で働いていたらファミコンで遊び放題だったのに」なんていう、つまらない「if」を考えていたものでした。
で。
当時の中曽根康弘内閣は民営化を勧めており、1985年には日本電信電話がNTTになり、日本専売公社が日本たばこ産業(JT)となりました。
後の話になりますが、1987年にNTTが株式上場したときはサラリーマンや主婦がにわか投資家となって参加する、大衆的な株式ブームを巻き起こします。
売り出し価格は119万7,000円。
「政府が売り出す株で損をするはずがない」というセールストークでNTT株の人気はエスカレーターし、165万株の売出しに対し申し込みは1058万件。その99%が個人でした。
1987年2月9日の上場初日は回注文が殺到して値付かずのまま初日を終え、翌日の取引終了間際に大蔵省が10万株を追加することでようやく160万円の初値を付け、4月には318万円になります。ですが、その後のバブル崩壊により、多くのにわか投資家は損失を蒙りました。
プラザ合意による円高不況と公定歩合引き下げ
1985年9月21日に、アメリカニューヨークのプラザホテルで開催された5ヶ国蔵相・中央銀行総裁会議での共同合意、いわゆるプラザ合意のポイントは3つでした。
・行き過ぎたドル高
・その是正のため各国が外国為替市場に協調介入するなど積極的に協調行動を取る
・市場開放や内需拡大策の推進
プラザ合意前のドル円相場は概ね1ドル=240円前後で推移していましたが、その直後は229円まで円高が進行。その後更に進み、1986年1月2日のニューヨーク株式市場での円相場は200円を切りました。つまり、9月22日にプラザ合意から3ヶ月で1ドル=240円→199円になったのです。
円が高くなるということは、ドルが安くなるということ。
近年は円安ドル高になっており、日本人がアメリカに行ってちょっとしたランチをしようとしたら数千円もかかってしまう、なんて話題もありますが、1986年当時はその逆でした。
円高ドル安は日本の輸出企業にとって大きな足枷となり、1986年に入ると、円高不況に対する危惧の声が広がってきます。
日本銀行はそれまでプラザ合意の方針に合わせ、円高を実現させるために金融引き締めを行っていましたが、円高不況回避の為に金融暖和を行います。
そのために取られた措置が、公定歩合の引き下げでした。
公定歩合は日銀が民間の銀行に資金を貸し出すときの金利です。
日銀が公定歩合を引き下げれば、企業や個人も民間の銀行から資金を借りやすくなります。
それまで5.0%だった公定歩合は1986年1月30日に4.5%に、その後3月10日に4.0%、4月21日に3.5%、11月1日に3.0%、1987年2月23日には2.5%まで引き下げられます。
バブル景気は1988〜89年
今回の記事でご紹介するのは1986年の「ホットドッグプレス」ですが、その後についても軽く触れておきます。
1987年10月19日にアメリカで「ブラックマンデー」が起き、株式が23%も大暴落し、日本でも株価が下落します。世界恐慌が始まるのではないかという懸念が広がりますが、1988年になると株価は一気に上昇します。1987年12月末には2万1,564円だった日経平均株価は、1988年12月には3万159円と、1万円近くも上昇。
そして、日経平均株価の終値が38,915円を記録する1989年12月29日が「バブル経済のピークであり最後」と言えるでしょう。1990年の年明けから、株価は下落を始めます。
つまり、実質的には日本のバブルは約2年の短い夢だったのです。
テーラードジャケットが定番アウター
さて、ここから「ホットドッグプレス」1986年5月10日号の誌面をご紹介していきます。
誌面最初にある、小ネタページ。「生音ディスコ」の項を執筆しているのは、藤原ヒロシ(リミックスDJ)。
「ホットドッグプレス」の名物連載、作家の北方謙三さんによる「試みの地平線」。
時代が時代ということもあり、なかなか過激な内容です。
で、ここからが今号の特集「D.C.ブランドに強くなる本」。
「D.C.ブランドとは?」。Dはデザイナーズ、Cはキャラクター。デザイナーズブランドの代表例はコムデギャルソン、キャラクターブランドの代表例はビギグループやファイブフォックスグループのブランド。この辺りについては、後の誌面で詳しく解説されます。
「今、注目の最新流行アイテムBEST5」。
「ストライプ・シャツが絶対!」。こういうキレイ目なシャツのコーデイネート、最近はなかなか見ないから新鮮気がします。
お次は「ジャケットの色と形で遊ぶ」。
こんな色合いのジャケットも、今はなかなか見られないですね。下段はマルイ系定番ブランドのひとつ、ジュンメン。
そう言えば最近見ていないな、と思って調べてみると、ブランド休止になっていました。
現在はジュンレッドというユニセックスブランドが、ジュンレッドの後釜になっているようです。
「ジャンパーが気になる」。「ジャケットの大ブームで忘れられていたジャンパーがこの夏復活する」とあるように、テーラードジャケットが当時の定番アウターだったようです。
ということで、次もテーラードジャケット。柄物です。
ニット。このキレイ目だけどリラックス感のある雰囲気は新鮮かつ今でもいけそうな感じ。
長続きしなかったアダルト志向のDCブランド
「アダルト志向のニューブランドでワンランク上の洒落者になる」。
「D.C.ブランドに飽きた高感度な感覚を持つ20代半ばからのヤングアダルト層をターゲット」とあるように、上掲のジュンメンなどの既に人気を集めていたDCブランドが新規顧客獲得のために新たにブランドを展開していたようです。
DCブランドブームの二匹目のドジョウを狙った、という感じでしょうか。
そういった出自だったからか、その後長続きしたブランドはほとんどなかったようです。
DCブランド→マルイ系栄枯盛衰
お次は「レディス・ブランドから生まれたメンズでさり気なくペア感覚」。既にレディスで人気だったブランドが、メンズも展開するようになったということですね。こちらも二匹目のドジョウ狙い感が漂っています。
左ページのニコルクラブフォーメンは今も継続して展開されています。
細身のシルエット、モノトーンベースのカラー、ロックっぽいディテールなど、これぞマルイ系!という雰囲気。
たまに話題になる、ワンショルダーバッグも販売しています。
次ページもレディス→メンズのDCブランド。
DCブランドというより、原宿系のイメージが強いブランド、ミルクボーイ。
左ページはペイトンプレイスフォーメン。
PEYTON PLACE FOR MEN。頭文字に注目。
そう、後のPPFMです。
PPFMが今海外で人気で、インスタグラムで高値で売買されていることは、↑の記事で詳しくご紹介しています。
が、PPFMもブランド自体は今はもう存在していません。
憧れデザイナーズブランドトップ5
DCブランド特集が続きます。
「憧れのデザイナーの服は、こう着こなす」。
「日本のD・B(デザイナーズブランド)の中で最も独自のスタイルを強く持つデザイナー5人」ということで、数あるDCブランドの中でも最も評価が高いブランドトップ5、ということでしょう。
その筆頭が、ワイズフォーメン。
言わずと知れた、山本耀司が手掛けるブランドです。現在、ヨウジヤマモトのメンズコレクションラインはヨウジヤマモトプールオムですが、1986年当時はまだ存在しませんでした。
そして2つ目に挙げられているのが、コムデギャルソンオム。
デザイナーは川久保玲。当時はコムデギャルソンオムと、コムデギャルソンオムプリュス両方のデザインを川久保玲が手掛けていました。田中啓一がコムデギャルソンオムのデザイナーとなるのは1990年。
僕の田中啓一愛については、こちらの記事も是非ご覧下さい。
ワイズ、ギャルソンに続く3つ目のデザイナーズブランドは、タケオキクチ。
↓の説明文にもあるように、1970年代に設立したメンズビギで、日本のメンズファッションを牽引。1984年に大手アパレルメーカー、ワールドに移籍してタケオキクチがスタートします。
続いては、イッセイミヤケメン。
こちらもこの頃はまだ創業者である三宅一生がデザイナーを務めています。
そして、憧れデザイナーズブランド最後はムッシュニコル。松田光弘が創業したレディスブランド、ニコル。
「松田光弘氏総合ディレクト、小林由紀夫氏デザインによるムッシュ・ニコル」とあります。後にコムデギャルソンオムを手掛ける田中啓一がデザイナーを務めていたのが、このムッシュニコルです。
DCブランドサクセスストーリー
続いては、「原宿ブランド&ショップ徹底研究」。
「今でこそ星の数ほどあるD.C.ブランド。知名度の低いブランドまで含めたら、その数は何千という数に達するかもしれない。もちろん、ボク達が認知しているブランドはせいぜい20〜30ぐらいのもの」という文言に、時代を感じますね…。いわゆる、DCブランドのサクセスストーリーを探るという特集のようです。
筆頭は、パーソンズフォーメン。先程も登場しましたが、レディスブランドのパーソンズから派生したメンズブランドです。「今や大人気ブランドとなったパーソンズ」とあるように、当時はDCのC、キャラクターブランドの代表格でした。
パーソンズ、実は僕的には思い出深いブランドでして、中学生の時にパーソンズの文具が流行っていて、かなり色々な商品を集めていました。
ですが、今改めて考えてみると、東京で大人気だったファッションブランドが、たった6年後には地方の中学生が気軽に買う文具のブランドになっていたという、DCブランドの栄枯盛衰を象徴するような出来事だったんです。
とはいえ、文具のようなライセンス展開ができたパーソンズは、かなり良い例だったのでしょう。この特集で紹介されている他のDCブランドは、パーソンズのようなライセンス展開もできなかったと思われます。
逆に言うと、当時のファッション業界は成り上がりができる夢があったと言えるでしょう。竹下通りのマップに掲載されているショップも、今は存在していないものばかりです。
超高飛車なハウスマヌカン
次のページは「ハウスマヌカン覆面座談会」。
ハウスマヌカン、今で言うところのショップスタッフ。販売員です。「夜霧のハウスマヌカン」というシングルが発売されたのが、1986年1月。
歌詞を見ればわかりますが、「夜霧のハウスマヌカン」ば当時の人気職業だったハウスマヌカンをネタにしたパロディソングのような歌です。この歌については、また後で触れます。
この頃には既にハウスマヌカンはネタにされていたということですが、この誌面に掲載されたハウスマヌカンのコメントは、非常に非常に非常に高飛車です。「女性編」では、「ダサいコに死に筋の洋服を買わせるのなんて、あたりまえ」。
次ページは男性編。
「買わないなら、見るだけ見てとっとと出てってほしいよ。ったく」。今の感覚だと考えられない態度ですが、実はこのハウスマヌカンの存在が、DCブランド人気の重要なポイントになっていたのです。それに関しては、後述します。
乱立するDCブランドの系譜
次ページは「一目でわかるD.C.ブランド発展図」。
「ブランドの系列を知って、ワードローブ計画に参考にしちゃう!」って、何がどう参考になるのかはわかりませんが、当時はそれだけDCブランドが乱立していたのでしょう。特に、ビギグループやニコルグループのブランド数はなかなかのものです。ピンクハウス、カールヘルムがニコルグループだったのは知りませんでした。
イッセイやヨウジも、今は残っていないブランドを色々展開していたようです。ギャルソンは四半世紀経った今も、全部ブランド存続中!
右ページ、アメ横のまるきんという靴屋の広告は、Kスイスが筆頭、続いてアディダス、コンバースと続きます。
左ページは「D.C.ブランドのボリューム・ゾーン早見表」。DCブランドが価格帯とトレンド性でマッピングされています。例えば、アニエスベーは最もベーシックなブランドのひとつ。
余談ですが、少年マガジンの広告。意外と絵柄が今っぽいような気がします。
普遍性の高いアイビー×時代感の強いDC
DCブランド紹介の続き。
「やっぱり普段着は50〜60年代のアメリカン・テイストで」。いわゆるアイビーをベースとしたDCブランドの特集です。
アイビーは普遍性が高いファッションなので、今の感覚でも違和感のないアイテム、コーデイネートが並んでいます。
このページは、アイビーの普遍性と、この時代のDCブランド特有のシルエットやデザインがいい具合に融合されているように感じます。
DCブランドに影響を与えた海外デザイナーズブランド
お次は「日本のDCブランドに多大な影響を与えた海外のデザイナーズブランド」のラインナップ。筆頭のジャンポール・ゴルチエには納得感があるのですが、ナイジェル・ケーボン、キャサリン・ハムネットと続いているのが僕的には意外でした。
当時の人気アイテムだったテーラードジャケットが並ぶ中、大胆なデザインのニットに柄シャツを提案しているのが、我らがポロ・ラルフローレン。
マーガレット・ハウエルは、今も当時も変わらない優しい色使いと素朴な素材感。
そして、今も人気のポール・スミスとアニエス・ベー。日本のDCブランドに比べ、今も生き残っている海外ブランドが多いのが印象的です。
ほとんど食べないで働いて服を買った時代
「ファッションウォッチング」のページ。こちらはいわゆるストリートスナップではなく、丸井新宿店で開催されたファッションイベントの参加者なので、掲載されているのはかなり気合を入れておめかししている服装だと思われます。
なので、完全にリアルとは言えないでしょうが、こういう感じがDCブランドブームのときにある程度リアル感のある服装だったと言えるでしょう。
服装だけでなく、髪型にも相当コストがかかっていそうな雰囲気。そして、驚きなのが年齢層の低さ。
16歳の多いこと多いこと。
おそらく、彼ら、彼女らが着用しているのはこれまでご紹介してきたDCブランドのアイテムなんでしょう。
シャネルなどのブランド名も登場しているところから、当時のティーンエイジャーがファッションに相当なお金を使っていたことが伺えます。
当記事の冒頭でもご紹介しましたが、当時の日本経済はまだバブル景気前夜でしたが、安定成長を続けていた時代。なので、こうやって10代の少年少女たちがファッションにかけられるお金も潤沢にあったのでしょうし、何よりも経済が右肩上がりに成長を続けており、明るい未来しか想像できなかったという世の中の空気感も、DCブランドブームの要因のひとつだったのだろうと思います。
それに加え、当時の若者のファッションに対する価値観も大きいと思われます。
ビームス創業40周年を記念して2016年に発売された、「WHAT'S NEXT? TOKYO CULTURE STORY」という書籍。
タケオキクチ、メンズビギを手掛けた菊池武夫さんと、メルローズのチーフデザイナーを務めていた横森美奈子さんによる、「ブームを牽引した立役者が語るD/Cブランド回想録」という対談が掲載されています。
「80年代半ばまで続いた」という指摘がある通り、1986年は「ほとんど食べないで働いて、とにかく服を買った時代」で、このファッションウォッチングに登場している若者たちは「洋服で自分を表現したいという欲求が、いまと違ってものすごく高かった」のでしょう。
「夜霧のハウスマヌカン」と藤原ヒロシ
そして、興味深いのがこの「ファッションウォッチング」隅っこにあるこちら。「ご存知HDP連載から出現したLP「業界くん物語」よりシングル・カットされた、名曲「夜霧のハウスマヌカン」を熱唱する東芝EMIのややサン」と、「HDPの編集者であり、芸人である、いとうせいこうクン」。
「夜霧のハウスマヌカン」は、いとうせいこうさんのアルバム「業界くん物語」に収録された一曲。
この「ホットドッグプレス」1986年5月10日号にも、巻末に「業界くん物語」が掲載されています。
そして、「業界くん物語」には、↓のページにも登場しているストリートファッション界のゴッドファーザーも参加しています。
左ページの吉田照美さんじゃありませんよ。右ページの「トンガリスト宣言vol.1」に登場している、「”トンガリスト1号”の藤原ヒロシ」です。
藤原ヒロシさんの半生がとても詳しく綴られた書籍「丘の上のパンク -時代をエディットする男、藤原ヒロシ半生記」で、「業界くん物語」について、いとうせいこうさんがこう語っています。
こちらは当時の貴重なライブ動画。もちろん藤原ヒロシさんも登場しています。藤原ヒロシさんがラップをしているの、初めて観ました。
「ホットドッグプレス」1986年5月10日号についての内容は以上になります。
デザイナーズブランドを名乗るための2つの要素
さて、ここまでご紹介してきた内容だけでもある程度DCブランドブームのあらましは理解していただけたと思います。
ですが、もっとDCブランドについて深堀りができる、良い書籍を見つけました。それがこちらの「ポストDC時代のファッション産業」。
DCブランドブームが一段落した1989年に発売されており、著者は当記事でこれまで何度も登場してきたDCブランド、ニコル出身ということもあり、とても解像度の高い内容になっています。DCブランドについて詳しく知りたい方にはお勧めの一冊です。
まず著者はDCブランドのD、デザイナーズブランドを「日本で初めての『ヤングカジュアルマインドを持った個性的な高級既成服』」だったと定義しています。
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