20471120、ビューティービースト…1990年代の日本でアヴァンギャルドなデザイナーズブランドが生まれた理由。


1990年代のデザイナーズブランドブーム

日本のデザイナーズブランドが最も脚光を浴びたのが1980年代で、その代表がやはり「御三家」と呼ばれ、今も絶大な人気を誇るイッセイ・ミヤケ、ヨウジ・ヤマモト、コムデギャルソンでしょう。

1980年代中盤にはDCブランドブームが到来。

ですが、1988年頃にはDCブランドブームは終息し、1990年代初頭のメンズファッションは渋カジに代表されるカジュアルなスタイルが主流となりました。
1980年生まれの僕がファッションにハマるきっかけとなったのが、高校生のときに訪れたハイテクスニーカーブーム。
マイナーモデルでしたが、手に入れた憧れのエアマックスに合わせて着ていたのは、当時のファッション誌に頻繁に取り上げられていた「ハマダー」みたいな古着を主体としたアメカジファッションでした。

1998年ホットドッグプレス。ハマダー。#昔のファッション誌 pic.twitter.com/C2IzTX6sIO — 山田耕史 文芸雑誌「群像」7月号にエッセイ「コムデギャルソンと川久保玲」掲載中 (@yamada0221) 2020年9月6日

大学入学後、マルイ系→セレクトショップなどを経てハマったのが、デザイナーズブランドでした。
結局一番ハマって今に至るのがコムデギャルソンです。

講談社の文芸雑誌「群像」7月号に、なんと僕のエッセイが掲載されています。タイトルは「コムデギャルソンと川久保玲」。エッセイを書くのは生まれて初めてなので、かなり苦労しましたが、僕のコムデギャルソン愛がそのまま文章にできたと思っています。興味ある方は是非。https://t.co/hny1gmy3PL pic.twitter.com/BziCUWC683 — 山田耕史 文芸雑誌「群像」7月号にエッセイ「コムデギャルソンと川久保玲」掲載中 (@yamada0221) 2023年6月8日

1990年代は今からは考えられないくらい、デザイナーズブランドの人気が高かった時代でした。
1990年代に人気だったデザイナーズブランドは、デザイナーの出身別に大きく3つに分類できます。
まず、マルタン・マルジェラやドリス・ヴァン・ノッテン、ダーク・ビッケンバーグらのベルギー勢
ジョン・ガリアーノ、アレキサンダー・マックイーン、フセイン・チャラヤンらのイギリス勢
そして日本勢。

1990年代後半は、DCブランドブーム以降に登場した新世代日本人デザイナーが脚光を浴びた時代でした。
その代表格が、ビューティービースト204711120(トゥー・オー・フォー・セブン・ワン・ワン・トゥー・オー)です。

ピンタレストで当時の画像を検索してみると、ヒットする多くの画像がストリートスナップ雑誌「FRUiTS」のものです。

https://www.pinterest.jp/pin/589619776230211304/
https://www.pinterest.jp/pin/27725353944879941/

「FRUiTS」の撮影対象は、当時原宿に集まっていた、尖りに尖りまくった若者たちです。僕は当時、神戸の三宮や大阪のアメリカ村など、関西のファッションスポットに頻繁に通っていましたが、「FRUiTS」に掲載されるような超弩級のファッションの人には、そうそうお目にかかれませんでした。

1997年に80年代DCファッションがリバイバル?

ですが、今回ご紹介する「流行観測アクロス」1997年11月号は、当時の僕の肌感覚に近い服装の人たちと、長年ストリートスナップを撮影し続けている同誌ならではのコメントが掲載されているので、併せてご紹介します。

誌面冒頭に「定点観測」が掲載されています。余談ですがこの「定点観測」のフォントにも、90年代の雰囲気が強く感じられますね。

アクロスの定点観測では、毎回決まったテーマにフォーカスして着用数がカウントされています。この号のカウントアイテムは「男女黒使いうち、全身黒使い」。「全身」とありますが、よく読むと「トップス、ボトムスのいずれかが黒いもの」とあります。つまり、黒を使ったコーディネートということですね。
渋谷では黒コーデのパーセンテージは、渋谷では22.3%、原宿は20.6%、新宿は18.1%、大阪心斎橋では6.8%。
解説文には「いよいよ80年代DCファッションがリバイバル?シンプルでもカジュアルでもない、“デザイナーズの黒”の台頭」とあります。この「いよいよ80年代DCファッションがリバイバル?」という文言はこの記事の重要なキーワードになっていきます。

「毎回季節の変わり目には浮上する黒」としながらも、「そのデザインも、妙なタックやファスナー、イレギュラーヘムのスカート、中途半端丈のフレアパンツといったアバンギャルド系のものが目立ち、明らかに“デザイナーズの黒”=80年代ファッションの復活(?)を予感させられた」とあります。
ピックアップされている女性は、黒のポロシャツに黒のイレギュラーヘムのスカート、そして黒の厚底シューズという装い。着用ブランドは掲載されていませんが、特にスカートは確実にデザイナーズブランドのものでしょう。

各地点のスナップレポート。まずは「やはりコギャル率が高い渋谷」。

90sデザイナーズブランド男子

続いて、原宿。

左の女性の画像と背景が同じなので、冒頭のイレギュラーヘムスカートの女性も原宿で撮影だったことがわかります。
右の男性はまさに僕が当時目にしていた90sデザイナーズブランド男子な雰囲気。
個人的に90sを特に感じるのが、膝下丈のパンツにゴツいボリュームのシューズのバランス、そしてブリーフケースのような手持ちバッグ。僕も当時、それぞれ似たようなアイテムを所有していた記憶があります。

新宿と大阪。

大阪については、「全身黒というより、ギャルソンや20471120(旧トライベンティ)などの黒のロングスカートを色ものと合わせるスタイルが目立っていた」とコメントされています。後でまた触れますが、やはり当時、20471120は「地元」大阪で強く支持されていたということがわかります。

右上の短パンの男性は、当時大人気だったナイキのハイテクスニーカー、フットスケープですね。このオリジナルカラー、今も大スキです。
そして、真ん中の女性二人組には「ヴィヴィアン・ファンっぽい」というコメントが。

イギリスのデザイナーズブランド、ヴィヴィアン・ウエストウッドはいつの時代も高い人気を誇る稀有な存在です。

令和でも人気のヴィヴィアン。凄いっすね。 https://t.co/KpGutu8WAN — 山田耕史 文芸雑誌「群像」7月号にエッセイ「コムデギャルソンと川久保玲」掲載中 (@yamada0221) 2023年6月30日

その魅力の理由については過去記事でご紹介していますので、是非ご覧下さい。

真ん中の男性も、いかにも90sデザイナーズブランド男子な雰囲気。フロントが短く、後ろを立たせた髪型がこの時代ならでは。

「20471120が好きだから、なんとなく」

コーディネートのポイント別のピックアップ。「ネクタイ、リボンではなく、襟元のワンポイントは“タイ”」。

左の男性のパンツは、こちらも当時人気だったクリストファー・ネメスのものでしょうか。バッグもそれっぽいですね。
この頃は他のブランドでも、ネメスのシグネチャーである膝の切り替えやステッチデザイン、大きく折り返したロールアップなどをコピー商品も多数存在していました。

真ん中の女性二人組には「タイの火付け役はこの“20471120”?」とのコメント。

同号のインタビューページでピックアップされている大阪の女性も、20471120のタイを着用しています。「好きなブランドはピースナウ、20471120、ビューティービーストです」「このリボンも、20471120が好きだから、なんとなく」。靴の「ヨシヒロミハラ」は、「ヤスミロミハラ」、つまり現「ミハラヤスヒロ」の誤植でしょうね。当時は「ミハラヤスヒロ」ではなく「ヤスヒロミハラ」だった記憶があります。

こちらの原宿の女性、左側はヴィヴィアン・ウエストウッドを象徴するシューズであるロッキンホースを着用。ロッキンホースはめちゃくちゃ高価ですが、当時本当に頻繁に見ました。

「爆発的に売れる」ジャパニーズデザイナーズブランド

ということで、以上でひとまずは1990年代のデザイナーズブランドブームのときのファッションがどんな雰囲気だったかは、お伝えできたと思います。
さて、ここからが今回の記事の本題になります。
参考文献となるのが、1999年8月に発行された「ジャパニーズ・デザイナー」という書籍です。現時点では、Amazonや楽天市場で古本を入手可能です。

僕の手持ちの本には、「売れない時代になぜ彼らの服は爆発的に売れるのか!!」という扇動的な文句の帯が付帯しています。

帯の裏側には「カリスマ・パワーを持つ若手デザイナーの仕事の中には新市場を引っぱる「消費のキーワード」が秘められている!」とあり、ビジネス書的な性格の本だということが伺えます。

著者は伊藤忠ファッションシステム。背表紙には「10代、20代が熱狂するカリスマ・デザイナーの秘密」

その「カリスマ・デザイナー」が、以下の方々です。若い人には馴染みがないかもしれませんが、いずれも当時ファッション誌によく登場していた人気デザイナーです。

内容の中心は、デザイナーのインタビューです。
トップバッターは、ビューティービーストのデザイナー、山下隆生さん
ファッション誌に掲載されているデザイナーインタビューでよくある「クリエイションとは?」的な内容ではなく、
「デザイナーの思うままに作る時代ではない。顧客を視野に入れたビジネスを進めていく必要がある」「経営者を兼ねることで市場を自分に引き寄せる」などからわかるように、デザイナーのインタビューなのに主題はあくまでもビジネスという点が非常に珍しいと思います。

山下隆生さんのインタビューでは、当時のビューティービーストの名物だった直営店の行列や、生産システム、三菱商事が生産、オリゾンティが販売を受け持つライセンスブランド、「オルソ ビューティ:ビースト」の取り組み方、ファンとのコミュニケーションの場としてのクラブイベントについて、などなどが語られています。

儲けたいからやっているわけじゃない

その次の、20471120の中川正博さんとLICAさんのインタビューは、当時のデザイナーズブランドの性格を象徴しているように感じたので、気になったポイントをいくつか引用します。(強調引用者以下同)

売れ筋を考えずに、作りたいものだけ、自分の中から湧き出たものだけを単純に一所懸命作ってきました。着てもらいたいとか売りたいとかを少しでも考えると、媚びたものになってしまう。そういう下心って服を通じて伝わるものなのです。

ジャパニーズ・デザイナー

同じ形ばかりで、色のバリエーションを揃えたり、きめ細かいサイズ展開だけしているブランドなんて「何よっ」て感じ。着た時の組み合わせばかりを打ち出しているショップを見ると、どんどんマイナーな気分になってしまう。
反対に、こういった服を作りたいという意気込みが伝わる「デザイン重視の服」を見ると、「やっぱり服はいいわあ」とパワーがもらえる。
奇抜なデザインとか、変わった色使いではなく、その服にデザイナーの気持ちが入っているかどうかが重要。私たちの服も、見た人が面白いな、自分も頑張ろうという気持ちになってくれればいいですね。

ジャパニーズ・デザイナー

作る量が少ないので、かえってファンの購買意欲を煽るのかなあ。でも、生産量を増やそうとは思いません。あまりにも儲けたいって感じがしそうで。 僕らのような服だったら、せいぜい売り上げは1.5億円が上限でしょう。それ以上になると、自分たちで管理できなくなると思います。

ジャパニーズ・デザイナー

売れるものがわかっていて、それをやればいいのにやらない。そこがポイント。売れることだけ考えたら、うちはもっと伸びると思います。お金を儲けるために何でもするというのが今の世の中だけど、何かをやりたくて始めたら、お金が付録で付いてきたというのが、私たちの本来の姿だと思う。儲けたいからやっているわけじゃありません

ジャパニーズ・デザイナー

90sカリスマデザイナーが独特の価値観を持った理由

こちらは、2019年に公開された20471120の中川正博さんのインタビュー記事です。長文のかなり読み応えがある内容なので、是非読んでみて下さい。

このインタビューで、中川正博さんは自身の90年代の活動をこのように振り返っています。

当時、インディーでブランドをやってたようなデザイナーはみんな80年代の三宅一生さん、川久保玲さん、山本耀司さんらの活躍を見て育った世代ですよね。彼ら以前は日本のモードってなかったわけですから。ファッションの中心はパリで、パリに対して右に倣えをしてただけ。パリの真似をすることがハイスタンダードなことで、カッコいいとされていたところ、三宅さん、川久保さん、耀司さんが、そうしたものとは異なる自分たちの世界を表現して、それが世界からも認められたんです。いわば、そこで日本のモードというものが初めて確立された。僕らはその次の世代ですね。バブルも終わり混沌とした空気の中で、上の世代からの影響を受けつつも、より自由な表現を求めて、各自がインディーズブランドを立ち上げていった感じだったと思います。

hagamag.com

DCブランドブームの影響と、バブル崩壊後という特別な時代
この2つが、90年代に頭角を現したデザイナーたちの価値観に大きな影響を与えていたことは間違いなさそうです。

DCブランドブームの成立過程とその背景

ここで改めて、1980年代のDCブランドブームについて触れておきます。
DCブランドブームの礎となったのは、1970年代に東京の原宿や青山で数多く生まれたマンションメーカーです。

若きデザイナーたちが仲間同士で借りたマンションの小さな一室で、多品種少量生産で個性的な服作りをしており、そこから後のDCブランドが数多く生まれました。

そして1980年代に入り、DCブランドが大ブレイクするきっかけとなったのは、ヨウジ・ヤマモトとコムデギャルソンによるパリコレクションデビュー。いわゆる「黒の衝撃」です。

当時欧米で主流だったファッションからは考えられない新しい価値観の提案は賛否両論はあったものの、「欧米で認められた」というお墨付きを得たこれらのブランドは日本で数多くのフォロワーを生みます。そして、1983年には全身を真っ黒の服で埋め尽くした「カラス族」がブームとなりました。

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1982年に創刊された雑誌「Olive」から生まれた「オリーブ少女」も1984年頃にはティーンズを中心に人気を集めます

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フランスの公立学校「リセ( lycée)」に通う中高生、リセエンヌのファッションを打ち出し、人気となりました。書籍「ストリートファッション 1980-2020―定点観測40年の記録」から引用します。

1982年に創刊された雑誌 「オリーブ」 だが、翌年、「マガジン・フォー・ロマンティック・ガールズ」というキャッチフレーズに変更し、リセエンヌのファッションやライフスタイルをお手本に提案したところ大ヒット。パリの女性の「チープシック」 や 「自由で遊びに満ちた着こなし」 は、 高校生や短大・大学生の女性に支持され、一気に広がっていった。
当時の同誌に紹介されたブランドは、〈JUST BIGI〉、〈ニコルクラブ〉、〈アトリエ・サブ〉、〈ディグレース〉、〈ドゥファミリィ〉といったティーンズ向けのDCブランドの一群だった。 なかでもカラフルな 〈パーソンズ〉や、フリルとキャラクター使いが特徴の〈ピンクハウス〉、〈ATSUKI ONISHI 〉は 「オリーブ少女」の御用達ブランドといわれた。
このDCブランドファッションの一端ともいえるこの時期は 「オリーブ少女・第1期」といえるが、単に少女らしさだけではなく、「少年っぽさ」 や 「重ね着=レイヤードスタイル」などもキーワードなのが特徴だった。
くるぶしが出る丈のコットンパンツに素足+白いスニーカー や、ワッペンやバッジ、 雑貨感覚のキッチュでかわいいアクセサリーをたくさん着けるなど、当時のアイドルの中でも人気を博した小泉今日子やチェッカーズに象徴されるような、子どもっぽい=少年・少女ファッションが若者たちに支持された。
一見パジャマのような柄物のシャツとパンツのセットアップも流行。 スパッツに短パンを重ねたり、オーバーサイズのシャツの上にショート丈のボレロを重ねたり、ステンカラーコートの襟に小さなレースのスカーフを巻いて、ロングスカートの裾からペチコートのレースのフリルをひらひら覗かせるなど、アイテムはベーシックであっても、重ね着をすることで、カジュアルダウンさせる。 そうしたパリの女子中高生、リセエンヌ風の 「カワイイ」 スタイルやチープシックのセンスは1990年前後に 「カッコイイ」 渋カジへと置き換えられ、 その後、1992〜93年に台頭した「フレンチカジュアル」 へと引き継がれていった。

「ストリートファッション 1980-2020―定点観測40年の記録」

このように様々なファッション的な要素が絡み合って発生したDCブランドブームは1984年から本格化します。

「DCブーム」が一般にも広がり始めるのは、84年あたりからだ。肩が落ちんばかりに ダボッとしたビッグシルエットの、いわゆるDCスーツが新人サラリーマンを中心に、 中年層まで巻き込んで流行。欧米発の正統派スーツを徹底的に崩すという、DCブランドの基調をなすひとつのスタイルが市民権を得た。また、チェック柄のダボダボスタイルでデビューした歌謡ロックバンドのチェッカーズが、 そのファッションも注目され、 一躍人気者となり一世を風靡する。トラッドを象徴するチェック柄が、彼らによって自由で饒舌な重ね着ファッションへと生まれ変わった。 DCブランドが若者ファッションという限られた範囲の中だけでなく、社会的にも受け入れられたのだ。
85年には、渋谷や新宿の丸井が、DCブランド中心のファッションビルへ変貌し、普通の既製服に比べるとかなり価格が高かったDCブランドを、赤いカードの威力で、ティーンズを中心に爆発的に浸透させていく。 また、丸井に限らず、 ファッションビルが行う年2回のバーゲンセール初日には、前日の夜からとか早朝5時からという常軌を逸 した若い男女の長蛇の列ができて話題となり、社会現象としての「DCブーム」が加速していった。
86年、男性向けの新しいブランドが数多く誕生し、一方で、単にDCブランドのデザインや店構えを真似た即席、偽物DCブランドショップが多発。既製服のほとんどが、 DCブランド風になってしまった。もはや、好むと好まざるとにかかわらず、 DCブランドかそれ風の服を着ねばならない状況がやってきたのだ。DCブームはここに頂点を迎えたのであった。

「ストリートファッション 1980-2020―定点観測40年の記録」

爆発的に広がったブームは、その失速も早いものです。

1988年頃にはジョルジオ・アルマーニやジャンフランコ・フェレ、ジャンニ・ベルサーチの「3G」に代表されるインポートブランドブームや、同じ頃に生まれた日本初のストリートファッション、渋カジに注目が集まり始めます。

以前の記事でもご紹介した「ポストDC時代のファッション産業 」という書籍が1989年11月に出版されるなど、1980年代の終りにはDCブランドブームは完全に失速していました。

バブル崩壊後の日本経済

次は、1980年代終盤から90年代初めの経済に目を向けてみましょう。
これまでの記事でも触れてきましたが、1970年代の高度経済成長期、1980年代の安定成長期を経て、1988年に本格的に突入したバブル景気のピークは、日経平均株価3万8,957円を付けた1989年末でした。
そして、1990年の年明けから株価は下がり始めます

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