20471120、ビューティービースト…1990年代の日本でアヴァンギャルドなデザイナーズブランドが生まれた理由。
1990年代のデザイナーズブランドブーム
日本のデザイナーズブランドが最も脚光を浴びたのが1980年代で、その代表がやはり「御三家」と呼ばれ、今も絶大な人気を誇るイッセイ・ミヤケ、ヨウジ・ヤマモト、コムデギャルソンでしょう。
1980年代中盤にはDCブランドブームが到来。
ですが、1988年頃にはDCブランドブームは終息し、1990年代初頭のメンズファッションは渋カジに代表されるカジュアルなスタイルが主流となりました。
1980年生まれの僕がファッションにハマるきっかけとなったのが、高校生のときに訪れたハイテクスニーカーブーム。
マイナーモデルでしたが、手に入れた憧れのエアマックスに合わせて着ていたのは、当時のファッション誌に頻繁に取り上げられていた「ハマダー」みたいな古着を主体としたアメカジファッションでした。
大学入学後、マルイ系→セレクトショップなどを経てハマったのが、デザイナーズブランドでした。 結局一番ハマって今に至るのがコムデギャルソンです。
1990年代は今からは考えられないくらい、デザイナーズブランドの人気が高かった時代でした。
1990年代に人気だったデザイナーズブランドは、デザイナーの出身別に大きく3つに分類できます。
まず、マルタン・マルジェラやドリス・ヴァン・ノッテン、ダーク・ビッケンバーグらのベルギー勢。
ジョン・ガリアーノ、アレキサンダー・マックイーン、フセイン・チャラヤンらのイギリス勢。
そして日本勢。
1990年代後半は、DCブランドブーム以降に登場した新世代日本人デザイナーが脚光を浴びた時代でした。
その代表格が、ビューティービーストや204711120(トゥー・オー・フォー・セブン・ワン・ワン・トゥー・オー)です。
ピンタレストで当時の画像を検索してみると、ヒットする多くの画像がストリートスナップ雑誌「FRUiTS」のものです。
「FRUiTS」の撮影対象は、当時原宿に集まっていた、尖りに尖りまくった若者たちです。僕は当時、神戸の三宮や大阪のアメリカ村など、関西のファッションスポットに頻繁に通っていましたが、「FRUiTS」に掲載されるような超弩級のファッションの人には、そうそうお目にかかれませんでした。
1997年に80年代DCファッションがリバイバル?
ですが、今回ご紹介する「流行観測アクロス」1997年11月号は、当時の僕の肌感覚に近い服装の人たちと、長年ストリートスナップを撮影し続けている同誌ならではのコメントが掲載されているので、併せてご紹介します。
誌面冒頭に「定点観測」が掲載されています。余談ですがこの「定点観測」のフォントにも、90年代の雰囲気が強く感じられますね。
アクロスの定点観測では、毎回決まったテーマにフォーカスして着用数がカウントされています。この号のカウントアイテムは「男女黒使いうち、全身黒使い」。「全身」とありますが、よく読むと「トップス、ボトムスのいずれかが黒いもの」とあります。つまり、黒を使ったコーディネートということですね。
渋谷では黒コーデのパーセンテージは、渋谷では22.3%、原宿は20.6%、新宿は18.1%、大阪心斎橋では6.8%。
解説文には「いよいよ80年代DCファッションがリバイバル?シンプルでもカジュアルでもない、“デザイナーズの黒”の台頭」とあります。この「いよいよ80年代DCファッションがリバイバル?」という文言はこの記事の重要なキーワードになっていきます。
「毎回季節の変わり目には浮上する黒」としながらも、「そのデザインも、妙なタックやファスナー、イレギュラーヘムのスカート、中途半端丈のフレアパンツといったアバンギャルド系のものが目立ち、明らかに“デザイナーズの黒”=80年代ファッションの復活(?)を予感させられた」とあります。 ピックアップされている女性は、黒のポロシャツに黒のイレギュラーヘムのスカート、そして黒の厚底シューズという装い。着用ブランドは掲載されていませんが、特にスカートは確実にデザイナーズブランドのものでしょう。
各地点のスナップレポート。まずは「やはりコギャル率が高い渋谷」。
90sデザイナーズブランド男子
続いて、原宿。
左の女性の画像と背景が同じなので、冒頭のイレギュラーヘムスカートの女性も原宿で撮影だったことがわかります。
右の男性はまさに僕が当時目にしていた90sデザイナーズブランド男子な雰囲気。
個人的に90sを特に感じるのが、膝下丈のパンツにゴツいボリュームのシューズのバランス、そしてブリーフケースのような手持ちバッグ。僕も当時、それぞれ似たようなアイテムを所有していた記憶があります。
新宿と大阪。
大阪については、「全身黒というより、ギャルソンや20471120(旧トライベンティ)などの黒のロングスカートを色ものと合わせるスタイルが目立っていた」とコメントされています。後でまた触れますが、やはり当時、20471120は「地元」大阪で強く支持されていたということがわかります。
右上の短パンの男性は、当時大人気だったナイキのハイテクスニーカー、フットスケープですね。このオリジナルカラー、今も大スキです。 そして、真ん中の女性二人組には「ヴィヴィアン・ファンっぽい」というコメントが。
イギリスのデザイナーズブランド、ヴィヴィアン・ウエストウッドはいつの時代も高い人気を誇る稀有な存在です。
その魅力の理由については過去記事でご紹介していますので、是非ご覧下さい。
真ん中の男性も、いかにも90sデザイナーズブランド男子な雰囲気。フロントが短く、後ろを立たせた髪型がこの時代ならでは。
「20471120が好きだから、なんとなく」
コーディネートのポイント別のピックアップ。「ネクタイ、リボンではなく、襟元のワンポイントは“タイ”」。
左の男性のパンツは、こちらも当時人気だったクリストファー・ネメスのものでしょうか。バッグもそれっぽいですね。
この頃は他のブランドでも、ネメスのシグネチャーである膝の切り替えやステッチデザイン、大きく折り返したロールアップなどをコピー商品も多数存在していました。
真ん中の女性二人組には「タイの火付け役はこの“20471120”?」とのコメント。
同号のインタビューページでピックアップされている大阪の女性も、20471120のタイを着用しています。「好きなブランドはピースナウ、20471120、ビューティービーストです」「このリボンも、20471120が好きだから、なんとなく」。靴の「ヨシヒロミハラ」は、「ヤスミロミハラ」、つまり現「ミハラヤスヒロ」の誤植でしょうね。当時は「ミハラヤスヒロ」ではなく「ヤスヒロミハラ」だった記憶があります。
こちらの原宿の女性、左側はヴィヴィアン・ウエストウッドを象徴するシューズであるロッキンホースを着用。ロッキンホースはめちゃくちゃ高価ですが、当時本当に頻繁に見ました。
「爆発的に売れる」ジャパニーズデザイナーズブランド
ということで、以上でひとまずは1990年代のデザイナーズブランドブームのときのファッションがどんな雰囲気だったかは、お伝えできたと思います。
さて、ここからが今回の記事の本題になります。
参考文献となるのが、1999年8月に発行された「ジャパニーズ・デザイナー」という書籍です。現時点では、Amazonや楽天市場で古本を入手可能です。
僕の手持ちの本には、「売れない時代になぜ彼らの服は爆発的に売れるのか!!」という扇動的な文句の帯が付帯しています。
帯の裏側には「カリスマ・パワーを持つ若手デザイナーの仕事の中には新市場を引っぱる「消費のキーワード」が秘められている!」とあり、ビジネス書的な性格の本だということが伺えます。
著者は伊藤忠ファッションシステム。背表紙には「10代、20代が熱狂するカリスマ・デザイナーの秘密」。
その「カリスマ・デザイナー」が、以下の方々です。若い人には馴染みがないかもしれませんが、いずれも当時ファッション誌によく登場していた人気デザイナーです。
内容の中心は、デザイナーのインタビューです。
トップバッターは、ビューティービーストのデザイナー、山下隆生さん。
ファッション誌に掲載されているデザイナーインタビューでよくある「クリエイションとは?」的な内容ではなく、
「デザイナーの思うままに作る時代ではない。顧客を視野に入れたビジネスを進めていく必要がある」「経営者を兼ねることで市場を自分に引き寄せる」などからわかるように、デザイナーのインタビューなのに主題はあくまでもビジネスという点が非常に珍しいと思います。
山下隆生さんのインタビューでは、当時のビューティービーストの名物だった直営店の行列や、生産システム、三菱商事が生産、オリゾンティが販売を受け持つライセンスブランド、「オルソ ビューティ:ビースト」の取り組み方、ファンとのコミュニケーションの場としてのクラブイベントについて、などなどが語られています。
儲けたいからやっているわけじゃない
その次の、20471120の中川正博さんとLICAさんのインタビューは、当時のデザイナーズブランドの性格を象徴しているように感じたので、気になったポイントをいくつか引用します。(強調引用者以下同)
90sカリスマデザイナーが独特の価値観を持った理由
こちらは、2019年に公開された20471120の中川正博さんのインタビュー記事です。長文のかなり読み応えがある内容なので、是非読んでみて下さい。
このインタビューで、中川正博さんは自身の90年代の活動をこのように振り返っています。
DCブランドブームの影響と、バブル崩壊後という特別な時代。
この2つが、90年代に頭角を現したデザイナーたちの価値観に大きな影響を与えていたことは間違いなさそうです。
DCブランドブームの成立過程とその背景
ここで改めて、1980年代のDCブランドブームについて触れておきます。
DCブランドブームの礎となったのは、1970年代に東京の原宿や青山で数多く生まれたマンションメーカーです。
若きデザイナーたちが仲間同士で借りたマンションの小さな一室で、多品種少量生産で個性的な服作りをしており、そこから後のDCブランドが数多く生まれました。
そして1980年代に入り、DCブランドが大ブレイクするきっかけとなったのは、ヨウジ・ヤマモトとコムデギャルソンによるパリコレクションデビュー。いわゆる「黒の衝撃」です。
当時欧米で主流だったファッションからは考えられない新しい価値観の提案は賛否両論はあったものの、「欧米で認められた」というお墨付きを得たこれらのブランドは日本で数多くのフォロワーを生みます。そして、1983年には全身を真っ黒の服で埋め尽くした「カラス族」がブームとなりました。
1982年に創刊された雑誌「Olive」から生まれた「オリーブ少女」も1984年頃にはティーンズを中心に人気を集めます。
フランスの公立学校「リセ( lycée)」に通う中高生、リセエンヌのファッションを打ち出し、人気となりました。書籍「ストリートファッション 1980-2020―定点観測40年の記録」から引用します。
このように様々なファッション的な要素が絡み合って発生したDCブランドブームは1984年から本格化します。
爆発的に広がったブームは、その失速も早いものです。
1988年頃にはジョルジオ・アルマーニやジャンフランコ・フェレ、ジャンニ・ベルサーチの「3G」に代表されるインポートブランドブームや、同じ頃に生まれた日本初のストリートファッション、渋カジに注目が集まり始めます。
以前の記事でもご紹介した「ポストDC時代のファッション産業 」という書籍が1989年11月に出版されるなど、1980年代の終りにはDCブランドブームは完全に失速していました。
バブル崩壊後の日本経済
次は、1980年代終盤から90年代初めの経済に目を向けてみましょう。
これまでの記事でも触れてきましたが、1970年代の高度経済成長期、1980年代の安定成長期を経て、1988年に本格的に突入したバブル景気のピークは、日経平均株価3万8,957円を付けた1989年末でした。
そして、1990年の年明けから株価は下がり始めます。
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