『どうする家康』の評価に思う。
SNSの『どうする家康』の評価を拝見すると、「いい」「悪い」の両極端で、「7つ褒めて3つけなす」ような書き込みは皆無に近い。
「感情をむき出しにせず、冷静に論争して」と思う。
第25回「はるかに遠い夢」 築山殿と松平信康が自害
第26回「ぶらり富士遊覧」 岡部元信と武田勝頼が討死
第25回「はるかに遠い夢」
築山殿と松平信康が自害した。史実は「築山殿に関しては自害か殺害かは不明で、松平信康は自害」だという。
──僕はどちらも「殺害」だと思っていた。
築山殿に関しては「殺害」であり、殺された時に、
「女ではあるが武士の娘。言ってくれれば自害したのに、暗殺とは卑怯者。恨んでやる」
と言ったそうで、実際に関係者の一族は祟られたという。
僕がどちらも「殺害」だと思っていた理由は「どちらも辞世が残っていないから」である。築山殿にしろ、松平信康にしろ、作法にのっとって自害したのであれば、辞世を詠んでいるはずである。(築山殿の肖像画に書かれている和歌は歌人の和歌である。)
『どうする家康』の松平信康は、とっさに伝役・平岩親吉の小刀を奪って自害した。
「お見事!」
と思った。辞世が残っていない理由が分かった。
松平信康が切腹に使ったのは村正とされるが、村正は三河武士が使っていた安い刀である。「松平信康なら、もっと高価な刀を使ったはず」だと思っていたが、平岩親吉の刀であれば、納得である。
第26回「ぶらり富士遊覧」
岡部元信は、空が明るい時間、高天神城で討たれていたが、史実は「夜になって城から打って出て、山麓で討ち死にした」である。明るい時の方が死ぬ時の表情がよく分かるので、史実を曲げたのであろうか? 時代考証の先生方にお聞きしたいものである。
また、史実といえば、「岡部元信」の「元」は今川義元の「元」であり、亡くなった時の名は「岡部元信」ではなく、「岡部長教」であった。
武田勝頼が討死するシーンを見て、「切腹では?」と疑問に思った方がおられると思う。武田勝頼の死には「討死説」と「切腹説」がある。
討死したとする古文書には、「槍で喉、両脇の3ヶ所を刺され、押し倒されて首を刎ねられた」とあり、切腹したとする古文書には、「妻子を斬り殺すと、辞世を詠んで切腹した」とあり、辞世が残されている。