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井上靖『利休の死 -戦国時代小説集-』「信康自刃」(中公文庫)


【収録作品】

「桶狭間」     織田信長
「平蜘蛛の釜」   松永久秀
「信康自刃」    松平信康
「天正十年元旦」  武田勝頼、織田信長、豊臣秀吉、明智光秀
「天目山の雲」   武田勝頼(武田氏滅亡)
「篝火」      多田新蔵(長篠の戦い)
「信松尼記」    信松尼(武田信玄の四女)
「森蘭丸」     森蘭丸(注)
「幽鬼」      明智光秀
「佐治与九郎覚書」 佐治一成(浅井長政の三女・江の前夫)
「利休の死」    千利休

(注)『どうする家康』では「森乱」。
彼が「蘭丸」と称した事例は存在しないのです。彼の文書には「乱」「乱法師」とあり、諱は「成利」です。森蘭丸というのは、軍記物などによる呼称。なので今回は、森乱としていただきました。(時代考証・平山優先生)


 浜松文芸館講演会講師・和久田雅之「井上靖の「信康自刃」

 「信康自刃」は、昭和28年8月の「別冊文藝春秋」35号に発表された。「あすなろ物語」がこの年の1月から6回にわたって「オール読物」に連載されているので、それに続く作品である。
 天下人となった徳川家康にとっての最大の謎は、信長の命とはいえ、正室築山殿と嫡子信康を殺してしまったことである。天正7年(1579)8月29日、佐鳴湖湖畔の小籔で築山殿が殺害され、9月15日には信康が二俣城で切腹した事件である。この事件は多くの作家によって作品化され、多様な説が示されているが、井上靖は一般に流布している説をもとに、家康・信長・信康・徳姫・築山殿の思惑や心理に焦点を当てて書いている。
 婚約から4年後の永禄10年(1567)5月、徳姫が岡崎に輿入れするところから物語は始まっている。互いの存在が必要不可欠の信長と家康であったが、この賭けは信長の方が負い目が大きかった。婚礼の夜、徳姫は義母となる築山殿に突如、肩の肉を思いきりつねり上げられる。元亀元年、家康は浜松城へ移ったが、築山殿を連れて行かなかった。元服した信康は、初陣の足助城攻略を手始めに三方ヶ原・長篠の合戦ほかで目覚ましい働きを示し、武田勝頼をして「指揮進退の鋭さは、成長の後が思いやられる」と言わしめた。この話を伝え聞いた家康は驚くべき合戦巧者のわが子に対し正体不明の不安を感じた。
 その後も家康は信康に滅びの予感を感じたが、信康自身は父以上に正体のわからぬ不吉な不安に悩まされた。それは、自分の体内に今川の血が流れているという意識からくるものであった。信康の予感通り、事態は悲劇的方向へ走り出す。
 天正7年(1579)、徳姫が築山殿の不行跡と武田家との内通、夫信康の残虐行為など12か条の訴状を父の信長に送った。7月、家康は酒井忠次と奥平信昌を御馬進上の使者に立てた。信長は2人に12の罪状について問い質だした。信長は今川の血を引く俊敏鷹の如き信康を若い芽の内に摘まねばならないと考えていた。徳姫からの訴状をこれ幸いと、2人を通じて信康と築山殿の生害を命じた。家康は息子と妻の弁護をしなかった。言っても無駄とわかっていたし、徳川家にとって築山殿と信康の存在は将来の禍根となることが明白であったからである。8月3日、家康は岡崎城へ出向き、信康にいきさつを話し、大浜、遠州堀江、そして二俣城へと移動させた。浜松城へ向かった築山殿は8月29日城外で害せられ、翌月二俣城で信康は自刃、21歳の生涯を終えた。作者は、自刃に立ち会った信康の家臣たちと徳姫のその後を簡潔に記して、小説を閉じている。
 袋井の可睡斎には、家康が毎夜築山殿の亡霊に悩まされていたのを、当寺の等膳和尚らの祈祷で亡霊を無事退散させたという話が伝わっている。

『浜松文学紀行』(井上靖と浜松 10)

★井上靖(1907-1991)
大正9年(1920年)2月 浜松城の二の丸跡の浜松尋常高等小学校(浜松市立元城小学校→浜松市立中部小学校)に編入学。
大正9年(1920年)4月 静岡県浜松師範学校附属小学校高等科(静岡大学教育学部附属浜松中学校)に入学。
大正10年(1921年) 静岡県立浜松中学校(静岡県立浜松北高等学校)に首席で入学。
大正11年(1922年) - 静岡県立沼津中学校(静岡県立沼津東高等学校)に転入。

 大正9年~10年の2年間、井上靖がどの程度戦国時代に興味を持っていたか知らないが、
「西来院は近いから行ったかな」
「二俣城は遠いから行ってないかな」
と妄想してみる。


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