『歴史探偵』「長篠の戦い」【感想】
★『歴史探偵』(選)「長篠の戦い」
・NHK
・2023年6月7日(水)22:00~22:44
・2021年5月19日の再放送
「長篠の戦い」(設楽原の戦い)は、「織田の鉄砲隊と武田の騎馬隊の戦い」というイメージが強いが、実際はどうであったか?
1.比率では同じ鉄砲数
織田・徳川連合軍と武田軍では、どちらも1割が鉄砲隊だったという。上杉軍の鉄砲隊は半分の0.5割なので「武田軍は鉄砲を重視していなかった」とはいえないという。
・織田・徳川連合軍 38000人 3000丁 300発/人 90万発
・武田軍 15000人 1000丁 50発/人 5万発
織田・徳川連合軍は38000人なので、鉄砲数は1割の3800丁のはずであるが、実際は鳶ヶ巣山砦奇襲に500丁、設楽原の野戦に3000丁で3500丁だったという。設楽原の野戦では、1人が300発撃ち、合計90万発撃ったという。
一方、武田軍は15000人なので、鉄砲数は1割の1500丁のはずであるが、実際は1000丁だったという。鉄砲は手に入れたものの、弾丸の調達が困難で、1人100発しか用意できなかった。しかも直前の長篠城攻めで半分使っていたので、設楽原の野戦では、1人が50発撃ち、合計5万発撃ったという。
この90万と5万という差が、勝敗に大きく関係したという。
2.鉄砲玉の調達先
実験では、火縄銃を使うと、50m先の的に当たる確率は73%であるが、100m先では10%に落ちる。鉄砲玉の素材が柔らかいほどまっすぐ飛んで、命中率が高まるので、鉛が最適だという。
銀の精錬にも使われる鉛は、南蛮貿易(長崎、堺)によって手に入れるので、内陸部を領する武田氏には調達が困難であった。武田軍の鉄砲玉は、永楽通宝(銅銭)を溶かして作ったという。
設楽原で発見された鉄砲玉の成分を分析すると、天正3年(1575年)の「設楽原の戦い」の4年前の元亀2年(1571年)に発見された睦平鉛山(むつだいらかなやま。愛知県新城市睦平鉛山)の鉛が使われているものがあった。つまり、「長篠の戦い」には、「睦平鉛山の鉛を巡る戦い」という要素も含まれていたのかもしれない。(睦平鉛山は菅沼定仙領と菅沼定満領の境にある。2人とも徳川家康の家臣であるから、睦平鉛山の鉛製の鉄砲玉は、徳川軍が撃ったものであろう。)
※小林芳春「設楽原の鉛玉とその周辺」
http://www17.plala.or.jp/sitaragahara/ronnkou2.pdf
3.鉄砲の三段撃ち
大量の銃、大量の玉が準備できたら、あとは撃ち方である。
当時の火縄銃は連射が不可能で、1発撃つと、次の玉を撃つまで30秒はかかる。これに対し、武田軍の馬は50mを4秒で駆ける。
「鉄砲の三段撃ち」方式は、1人目が一斉に撃ったら2人目と交替して一斉に撃つ方式であるが、これでは、効率が悪いという。そこで、実際は「先着順自由連射」方式(レジ待ち撃ち)だったのではないかと想像されている。これは、撃った後、準備のできた人が撃つ方式である。
4.陣城
織田・徳川連合軍の勝因の1つは「陣城」だという。堀(連吾川)と土塁(山)の間に3重の塀(馬防柵)を設けた。
番組では「かぎ縄」で馬防柵を倒していたが、
・「かぎ縄」って、人間がひくのではなく、馬がひくのでは?
・人間がひいても、馬がひいても、あんなに簡単には倒れないであろう。
織田信長は「雨将軍」である。季節は梅雨。「設楽原の戦い」の前日まで雨が降っていたが、当日は晴れて火縄銃が使えた。
雨の中での馬防柵の設置。乾いた土に杭を打ち込むのは大変だが、濡れた柔らかな土であれば、想像以上に深く打ち込めたのではないかと思う。馬防柵は想像以上に、普通の柵以上に頑丈で、揺らしても倒れなかったと思う。
武田軍敗れたり!