人工物に補えないもの
都会は人工物で溢れている。
人工物は、
①自然の模倣
②自然を切り取ったもの
③その人の内なる自然を表現したもの
のどれかに当てはまると思う。
③は芸術(絵、音楽、ダンス等)、オタク文化、その他サービス業等、実態のないものが挙げられるだろう。
①②は自然を切り取ったものや、自然から採れるものだ。
なのでちょっとした緑地や公園、植栽は多くの場合、完全なる芸術作品に昇華されている(地方の里山かて人口ではあるが、周囲の環境との融合度合いを含めると、都会にある自然は世話が欠かせない等、一線を画している)。生き物なので成長したり、枯れたりするが、あくまで「人間の都合のもの」であるため、綺麗に定期的に刈られたり、季節に応じて入れ替えられたりする訳だ。
また例えば、博物館で展示されるものは、自のごく一部分を、限られた中の可能な方法で表現し、一般向けに、消化しやすく噛み砕かれた表現がなされたものだ。
これはあくまで大元の自然をより多角的に、詳細に理解するため、また知らなかった分野を知るためのものであり、自然そのものを体感を通して理解する経験と、博物館という室内展示で得られる経験は別物なのだ。
これは当然、どちらの経験がより重要かよいう話ではない。両方とも得られれば、1番最高なのだ。ただ、どちらもどちらの代わりとして、置き換えられるものではないと言いたい。
(前者に関して、仮に学術的な知識を持たなくとも、本来の姿のものを全身の感覚で、非言語的に理解する事と補足しておく。)
非言語的な価値は、自然の中に存在する。
もちろん人間も自然そのものだから、人間があるところにはどこでも、非言語的な価値は生まれ、存在する。
しかしどうにも言語に置き換えられないような、しかし多くの人に共通して価値が認められ、求められる事象が確かに存在し、
口当たりが良く加工された人口的な形では、どうにも物足りない、何かが足りないと思わずにはいられない瞬間があるはずなのだ。
これが人間が身体性も無理できない理由だと思う。
物事は、結果が先にあり、科学はその結果を理解するために、どうにか掴めた原因・理由の事だ。
まだまだ言語化させていない、非言語の領域に(これを身体性と表記した)、現代人が取りこぼした価値があるのではないかと思う。