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私が卒業式の国歌斉唱に反対する理由

最初にいくつかのこと(私の主張)を言いたい。

私は海外の国歌斉唱についての事情には明るくないが、このような愚かなことをやっている国があれば、どの国であろうと反対する。
例えばアメリカの朝礼には断固として反対する。
ただし、後述する一部の例外を設ける。

私は左翼でも右翼でもないが、ナショナリズムには徹底的に反対している(この立場から左翼に分類されがちだ)。この場合、日本のナショナリズムだけではなく、世界中のナショナリズムを否定する。
ナショナリズムに繋がりやすい、共和制以外の政治体制(天皇や王がいる体制)には反対する。

日本は旭日旗を使用禁止にすべきであり、その点においてはドイツを見本にするべきだという主張を私はする。例えば罰金刑を施行するなど、使用の根絶に向けて動き出すべきである。
ただ、自衛隊旗は現行のままでよく、式典などの場で日章旗を掲揚することには反対していない。

なぜなら旭日旗の旗のもとにたくさんの人が殺された歴史があるからである。旭日旗だけでなく、戦争を行った国の当時の旗(ハーケンクロイツなど)は全て使用禁止にするべきであると私は主張する。

「国籍同一性障害」に苦しむ私たち

私は現在、日本国籍を持っている。

日本国籍を持っている人を日本人と定義するなら、私は日本人だ。

私の友達は現在、イタリア国籍を持っている。日本とイタリアは二重国籍を認めていないため、彼女は日本国籍を持っていない。

日本国籍を持っている人を日本人と定義するなら、彼女は日本人ではない。

まあ当たり前のことを書いただけだ。この記事では、わかりやすくするために、日本人であることの定義を、日本国籍を持っている人とする。

日本人である条件を定義すると、同時に日本人でない人の条件も定義することになる。

私はイタリア人でありたいと願い、彼女は日本人になりたいと願っている。

私達は、性同一性障害ならぬ国籍同一性障害である。望んでいる国籍と実際の国籍が違うのだ。私は日本人であることにものすごく違和感があり、ときに苦痛を覚える。それは私が日本を嫌いであるというのではなく、日本国籍を私が欲しないからだ。
私は日本が好きだし、日本の文化や歴史(※大戦中のナショナリズムによる暴挙以外)には、ある程度の誇りを持っている。それなのに、その違和感は、年々大きくなっている。

国籍は洋服のようには簡単に変えられるものではなく、変えるのに何十年もかかる。国籍を変えようと思えば、滞在許可証を取得し、永住権を取得し…このように長い時間がかかり、一生を変えてしまう。

国歌斉唱を誰にとっても心地よいものにするための、たったひとつの条件

自らの国籍に誇りを持っていたり、少なくとも国籍に違和感がなかったりする人は、国歌斉唱に何の苦痛も感じないのだろう。

国歌斉唱の問題点は、その国歌斉唱が強制されている点にある。

あの雰囲気では誰もが起立しなければならず、誰もが君が代を歌わなければならない。それに抗った教員は職を失っている。

私は国歌斉唱について反対したいのではない。国歌斉唱を強制的なものにすることに反対したいのである。

つまり、あの場所で

1 起立をしても、斉唱を口パクで行う自由
2 起立をしても、斉唱を行わない自由
3 起立をしない自由(座ったままでいる)
4 国歌斉唱のときだけ別室にいる自由
5 式そのものに参加しない自由

を、全ての人間に認めてほしい。

逆に、国歌斉唱が自発的である場合は、国歌斉唱を禁止する必要はない。

コロナウイルスの流行により、イタリアはいま非常に苦しんでいるが、その際にイタリア国歌が歌われたという。

ただ、それはあくまでも自発的であり、市民の意思により行われた。それが強制的であるなら私はもちろん反対するが、少なくとも私の聞いた範囲ではそうではなかった。

これをナショナリズムだからおかしいと批判するのは、あまりに短絡的ではないだろうか?