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名前を知らない

上京したばかりのころは人の濁流に流されてばかりだった。
行きたい方向に進めず、流れが落ち着くところまで歩き続けてUターン……。そんなことを何度繰り返しただろう。

それが今では、毎朝人が入り乱れる駅構内を颯爽と進めるようになった。気分は遡上する鮭だ。
自分も頼もしくなったものだなと思いつつ、なぜか少しの寂しさに包まれる。 

あの頃は、私を「わたし」として認識してくれる人がいないことが苦しかった。
毎日人の波を必死にかき分けて進んでも、私も人の波の一部でしかなくて、誰にも名前を呼ばれることもないし知られることもない。
買い物をしても、散歩をしても、出かけても、大勢のなかの一人にしかなれない。
「こんなに人がいるのに」と孤独を感じていた。

でも思い返せば、それは大勢の人も一人ずつは一個人だと思えていたからなのだと思う。
ベビーカーを押す女性の疲れた顔、前を歩くカップルの仲睦まじい様子、青い顔で駅構内を駆け抜けるサラリーマンの背中、いちいち思いを馳せたりどんな人か想像していた。

いつからそんなふうにしなくなっただろう。

すれ違うおばあさんに拳を思い切りぶつけられた時だろうか。
追い越して行く人の鞄が体に当たったのに振り向きもされなかった時か。
足元を確かめながら歩いているおじいさんに向かって舌打ちをしている人を見かけた時か。
満員電車で押し潰されながら伝わってきた他人の体温を「嫌だな」と思ってしまった時かもしれない。

他人を一個人として認識すればするほど息が詰まり、もう今は人混みも風景になってしまった。

「こんなに人がいる東京で、一人ひとりのことを考えていたらキリがない」
そう自分に言い聞かせながら、少しずつ自分から優しさが流れ落ちていくような気がする。

優しい人になりたいのに。
名前を知らない誰かのことも思いやれる自分でいたいのに。

前から来る人を一瞥もせず交わしながら人混みを進むたび、そんな自分からは遠ざかっている気がして少し寂しい。

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