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「SAVE」を振り返る
浜松公演、静岡清水公演ともに、沢山のご来場とあたたかい感想をいただきました。上演中に涙を拭うお客さまもみえたし、涙で濡れたアンケート用紙も回収しました。終演後、物販に並ぶ皆様のお顔はとってもキラキラしていたし、SNSでも好評いただいて、「大成功を収めた」といっても過言ではないと思います。それは、舞台で見事に演じきった役者たちをはじめ、世界を創造しそれを支えてくれた沢山のスタッフの力にほかならないでしょう。微力ではありますが、そのなかの一人として、この作品に関われたことをとても嬉しく思っています。感謝の気持ちでいっぱいです。
けれど、だからこそ、今回の作品をちゃんと振り返ります。いいところも悪いところも。だってこんな大きなお芝居めったに出来ないのだから。ちょっと盛り上がっているところに水を差すようなことになりそうで申し訳ないのだけれど、こういうのちゃんとしたほうがいいと思うの。だから、これ以降を読み進めるのはお勧めしません、それでも、記録に残しておこうと思います。私の思ったこと、感じたこと。
”ミュージカル”さまさますぎる
誤解ないようにしっかりお伝えしておくのだけれど、この「SAVE」は”総合芸術舞台”であり、決して”ミュージカル”にカテゴライズされるものではありません。”ミュージカルシーンを含んだ演劇”であります。
とはいえ、観客の皆さまの心に残ったシーンはどのシーンでした?やっぱり魂の籠ったあの歌や、うきうき踊りたくなるようなダンス、だったのではないかと思います。私もそう。ノートンの歌を聞いて心が震えたし、市民たちのダンスはずっといつまでも観ていたかった。私は恥ずかしながらミュージカルを生で観た経験がそれほどないのだけれど、この歌とダンスと、立派な舞台美術に魅力的な衣装と…なんというか、やっぱり”ミュージカル”ってすごいんだなって思った。人を感動させる力が、心を動かす力がすごい。演劇とはちがう、魅入らせる力というか、惹きつける力がすさまじいな、と。でもすぐに恥ずかしくなりました。私は”ミュージカル”を知った気になったんですこの一瞬。これは”ミュージカル”ではないというのに。これは”ミュージカル”の美味しいとこだけもらった演劇。いやいや、こんな失礼なことあってたまるかですよ。
なぜ「ミュージカル」ではなく「ミュージカルシーンを含む演劇」となったかにおいての経緯は、当時運営に携わっていたので私も知っています。だから簡単に語れませんが、総合芸術の創作者たちはもっとよく考え行動しなければいけませんね。特に自分たちの分野外のお力をお借りするときには。
「SAVE」ロングランを考える
芸術作品のテーマを一言で表すなんてナンセンスだけれど、今回の作品においてはとてもわかりやすいし、そうであってほしいと願うので敢えて言葉にすると「反戦」でいいよね?だめ?やっぱナンセンスかな。
そのテーマにおいて”ノートン皇帝”という題材はとってもとっても良かったと思うの。「誰も殺さず、誰からも奪わず、誰も追放しなかった唯一の皇帝」の演劇はとても価値があると思った。子供からお年寄りまで、すべての人に見てもらわなければいけない。ロングランすべき。
けれど、それにしては、中身がちょっと重さ深さが少し足りない気がしているのです。なにがそう思わせているのか、ちょっとそこを深く掘ってみようと思います。
導入で心をつかみたい
物語は、ノートン皇帝を軸に、新聞記者マイケルを主人公とし展開していきます。ノートンがドラえもんで、マイケルがのび太なわけやね。で、新聞社で出来事(ノートン皇帝の訪問)が起こり記事になり、その新聞が世間に出回って、世間が大きく動き出す、という流れ。
だとしたら、冒頭のシーンはノートン皇帝に出会う前の記者マイケルの日常から始まるべきでは?今思うと、たとえばミュージカルパートで新聞社のシーンがあったならば作品のボリュームもかわって見える気がする。
ノートン皇帝の人生のターニングポイントになるシーンだって、あんな頭に持ってこずに、物語の盛り上がるところで使い道はいくらでもあったと思うのです。ノートン皇帝の人間としての深みがぐっと見せられるシーンなのだから。
だとしたらやっぱりノートン皇帝は、最初ちゃんと頭のおかしい変人として登場させなきゃだめじゃん!異質で、異常で、マイノリティーな尖ったキャラクターであるべき!そうすれば作品がはらむメッセージが、もっと豊かになったかもしれない!
キャラクターたちが持つ使命
キャラクターの話で行くと、市民たちがもったいなかった気がします。
ノートン皇帝の影響力を表現するには、世間の変化を見せなきゃいけません。しかし、あの市民たちの背景に社会活動はみえませんでした。洗濯をする=生活する、パンを作る=商売する、恋をする=社交する、といった例えだったのだと思うけれど、「変わらない毎日」に潜む複雑な「不安」や「不満」は皆には伝わってました?そしてその「変わらない毎日」が「変わってしまった」瞬間の絶望は、どこまで伝わっていましたか?
市民たちのシーンは舞台パフォーマンスにおいては賑やかしであり、物語が展開していく中の息抜きでありつつ、この作品の要でもあります。観客の多くがこの市民と同じ立場にいるのだから、その市民たちのシーンに観客が自分を重ねられるほどの解像度があれば、作品のテーマは肌で伝わるに違いないと、私は思いました。
作り手の覚悟
脚本が悪いって話じゃないの。役者に魂を吹き込むのは役者なのだもの。いや、誰が、何が悪いってことではないの。ただ作品を作るということには(作品を世に出すということには)責任が伴ってくるし、その責任について関わる全ての人がどれくらい考えたのだろう、とは思うの。受け身でいないで、もっと出来ること、あったんじゃないかなぁ、と。
あぁ、でも逆に、抱え込みすぎる人もいたな。自己犠牲が美徳の時代は終わったのよ。いや、その時代であっても、抱えたなら責任もって抱えきってたと思う。過信するな。かいかぶるな。もっと自分を愛してやれよ。誰も幸せにならないのよ。
今回ただでさえ大所帯の大作、トラブルもハプニングも起こらないわけないけれど、想像以上にそれはそれはすごかったです。交差する様々な情報を自分で見極める力が試される現場でした。あれ?どこかで聞いたような…
次のために
話が少しずれてしまった。
やっぱり「SAVE」はこのまま終わってはいけない気がします。もう一度作ろう。もったいないよ。花から種を受けとった。この種、育ててみたい。もっともっと大きな花を咲かせたい。あぁ、でもこれ、終演後に毎回なってる気もするな私…。これも一種の舞台マジックか…。
でも感じてる人は多いと思うのです。またやりたい。今度はもっとやりたい。ちゃんとやりたい。舞台って面白い。舞台ってすごい。ってか、舞台監督だいじ。演出助手だいじ。制作だいじ。あと打ち上げの幹事もだいじ。って。笑
次に活かしましょう。
絶対に。
静岡演劇はもっともっと面白くなる。
わたしもがんばろ。