
政治的公平って何だろう?/『表現の自由』(市川正人)【新書を読む】
テレ朝の「椿発言事件」
テレビ朝日の「椿発言事件」をご存じだろうか。
1993年、衆院選で自民党が過半数を割って初めて野党になり、非自民の細川連立政権が誕生したときに起きた舌禍事件。本書の第4章「放送の自由と公平性」でも詳しく説明されているが、あらましをなぞっておく。
1993年7月の総選挙の結果、政権交代が実現し、自民・社会の2大政党対立を軸とする「55年体制」が終焉した。その興奮がさめやらない同年9月、民放連の放送番組調査会で、テレビ朝日の椿貞良報道局長が、次のように発言したとされる。
「55年体制を突き崩さないとだめだ、ということで選挙報道に当たった」
「(自民を離党した新生党の)小沢一郎氏のけじめをことさら追求する必要はない。反自民の連立政権を成立させる手助けになるような形で報道をまとめていた」
おバカである。
この人は「政治的公平」や「報道の公正」に関して普段から思うところがあったようだが、それならそれで、理論武装をした上で、しかるべき場で口にせねばなるまい。
「これまでさんざん『ニュースステーション』に圧力をかけてきた自民党の連中め、ざまあみろ」と言わんばかりの緊張感を欠く軽口は、当然のように、何倍、何十倍のブーメランとなって跳ね返った。椿局長は国会で証人喚問を受けたが、波紋はそんな程度でとどまらなかった。
放送法は、放送番組の編集にあたって「公安及び善良な風俗を害しないこと」「 政治的に公平であること」「報道は事実をまげないですること」「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」という番組編集準則を掲げている。
郵政省(現在の総務省)は、この番組編集準則は倫理規定であって放送事業者が自律的に守るべきものとしていたのだが、椿発言をきっかけにスタンスを変えた。準則は法的拘束力を持ち、違反があったら電波法による停波命令も出し得る、という立場を打ち出すようになったのだ。
これ以降、放送番組への国家の介入が格段に進んで現在に至る。
闊達さを失ったテレビ
テレビではこれ以前にもいわゆる「やらせ事件」が社会問題になったことは幾度かあったが、「政治的公平性」という側面から手足を縛りつけられたことでテレビは大いに活力を削がれ、政治報道は委縮していった。ここから、テレビ報道が影響力と信頼を失った一方で、SNSが選挙を席巻した2024年までは一直線だ。
個人的な感覚だが、政治報道だけでなく、テレビというメディアが面白くなくなってきたのも、ほぼ同じ時期からだったように思う。
自主規制の旗のもと、コメンテーターのテキトーな声ばかりでお茶を濁そうとするメディアに落ちぶれた、といっても言い過ぎでないのではないか。
ここまで「放送の公平性」の事ばかりを書いてきたが、本書は「政治的中立性を維持しなければいけない」という名目で、表現が制限されることがいかに危なっかしいかを指摘する本だ。金沢市庁舎前広場での集会開催、高崎市の「群馬の森」の朝鮮人追悼碑の設置など、司法の場で争われた事例が紹介され、「表現の自由」をめぐる日本社会の現在地が示されている。
あらためて感じるのは、「政治的公平」「政治的中立」って、一体何なのだろう、ということだ。
筆者が「たとえば、沖縄の美しい海を愛でる歌は、歌い手によってその美しい海を破壊する辺野古埋立工事への批判という『政治的意図』で歌われるかもしれないし、聞き手がそうした『政治的意味』を感じるかもしれない」と書いているように、すべての表現は、捉え方によっては中立性を欠いた「政治的表現」となり得る。つまり、いかようにも拡大解釈され、気づいたときには自由が侵食されている懸念があるわけだ。
最後に再び放送の話に戻るが、本書によると、1950年の放送法制定を強力に推し進めたのはGHQであり、新聞などと異なる法規制の最大の根拠とされたのは周波数の有限性・稀少性だった。
しかしBSやCATVなど多チャンネル化が進んだ上、ネットによる動画配信も一般化した現在では、当時から状況は一変している。アメリカではすでに1987年に、放送の公平原則は廃止されているそうだ。
いいなと思ったら応援しよう!
