宮武外骨『頓智協会雑誌』明治憲法で遊んで監獄行き【禁画★新年】
新しい年を迎えました。
「謹賀新年」です。
キンガ・シンネン…..。
そう、昨年末から禁書をテーマに何本かの文章を書いてきましたが、歴史には禁書があれば、「禁画」だってあったのです。
入獄4回の「発禁王」
明治から昭和にかけての「発禁王」といえば、宮武外骨です。
筆禍による入獄4回、罰金刑15回、発行停止・発売禁止14回を数えた反骨のジャーナリストです。といっても、外骨はただ、四角四面の政府批判を繰り広げたわけではありません。
彼の真骨頂は、何と云っても「滑稽」と「頓智」。『滑稽新聞』『屁茶無苦新聞』『スコブル』といった発行雑誌名からも、その雰囲気はうっすらと感じ取ることができるでしょう。
さて、外骨にまつわる「禁画」で有名なのは、何といっても、1889(明治22)年2月に大日本帝国憲法(明治憲法)が発布された時、翌月の『頓智協会雑誌』第28号に掲載した「寓意画 頓智研法発布式」です。
当時は明治憲法を祝い、発布式をあしらった錦絵が世に多く出ていました。
そんな中、外骨は自らが発行する雑誌に、骸骨、つまり外骨自身が憲法ならぬ「研法」を下賜する一頁大のイラストを載せ、憲法発布を軽くおちょくったわけですね。
さらに、その次の頁には、憲法発布に伴う勅語をもじり、「研法発布囈語(うわごと)」と題した文章を掲載します。
「大日本憲法発布勅語」の出だしが
「朕国家ノ隆昌ト臣民ノ慶福トヲ以テ中心ノ欣栄トシ朕カ祖宗ニ承クルノ大権ニ依リ現在及将来ノ臣民ニ対シ此ノ不磨ノ大典ヲ宣布ス」
なのに対し、「研法発布囈語」は
「余協会ノ隆昌ト会員ノ幸福トヲ以テ無上ノ栄誉トシ余ガ偶然ニ出ヅルノ意見ニ依リ現在及将来ノ会員ニ対シ此ノ不完ノ条規ヲ発布ス」
で始まる、といった具合。
ご丁寧に「大日本頓智研法」の条文まで載っけています。これも大日本帝国憲法と比べてみましょう。
雑誌は大いに話題を集めたものの、発行の数日後に発行停止。宮武外骨は「玉座の上に骸骨を図したる等は天皇に対し不敬」として不敬罪で告発されます。外骨には、裁判で重禁錮3年、罰金100円の判決が下され、東京の石川島監獄に収監されることとなりました。外骨は当時23歳。初の入獄でした。
外骨が揶揄したかったのは?
宮武外骨はのちに、この事件で監獄に入ったのをきっかけに「藩閥官僚政治の専断横恣は断じて許すべからず」と感じ、「藩閥官僚と連なる資本家の悪辣さについても仮借なき筆誅を加え」るようになったと語っています。
つまり、この時点では外骨にはそこまで明確な政府批判の意図はなく、軽いシャレのつもりで憲法発布式のパロディー画を掲載しただけだったようなのです。なのに、そんな遊び心が真正面から否定され、思いもよらず取り締まりに遭ったことが、政府にとって厄介な反骨漢・宮武外骨の誕生につながった、ともいえそうです。
ちなみに、明治憲法は国民に秘密裏に作成され、発布式の時点でも一般の国民はその内容を全く知りませんでした。ひょっとすると、外骨がこの「禁画」で揶揄したかったのは、明治政府だけでなく、中味もよくわかっていないのに発布を祝ってお祭り騒ぎを繰り広げた当時の国民でもあったのかもしれません。
参考文献
『宮武外骨此中にあり 第5巻 頓智協会雑誌・下』(ゆまに書房)
『宮武外骨伝』吉野孝雄(河出文庫)
『別冊太陽 日本のこころ250 宮武外骨』(平凡社)
『慶応三年生まれ七人の旋毛曲がり』坪内祐三(講談社文芸文庫)
『月刊広告批評 63号』特集・わしが宮武外骨だ!(マドラ出版)