遊びをせんとや生まれけむ
さて、沖縄今帰仁で1週間のお留守番中である。
お家があるってありがたい。
キャンプ生活ではすっかりバテてしまったので、
この暑い中、野生動物や町の猫たちにしても逞しいなぁと改めて思う。
毎日のように陽が沈む頃になると、海へひと泳ぎに行くのが日課になっている。
その日の気分で行きたい浜3つほどから選んでさっとひと泳ぎ。
その中でもお気に入りの一つ「月桃ビーチ」という浜へ向かった。
ここは人の氣が少ない方で、静かに沐浴したい時はここへ向かう。
いつも通る道の途中で見覚えのある方が畑をしていた。
向こうもじっとこちらを見ていた氣がしたので、「あっ!」と思い立ち車を停める。
案の定Kさんだった。
彼の作る野菜によって、今帰仁の食卓は支えられているらしい。
先日の展示にも来てくださり、やっていることは絵と畑だが、
見ている視点が近しいねというお話になり、また会いたいと思っていた方だ。
「どうぞ畑を見て行ってください。」と声をかけていただき見させてもらう。
ふかふかに積まれた草のマルチにしゃがみ込み
「こんな風に這いつくばって見てみてください。森でしょう。」
と自身も這いつくばりながら一緒にモロヘイヤの畝を覗き込む。
たしかに土の目線で見るとモロヘイヤの高木の下に雑草たちの低木、下草、と森が広がっている。
「畑というより森。蒔けば生えてくる。それを虫たちと分けていただく。」
わしゃわしゃの畑も、言葉一つ一つも波照間の師匠とかぶる。
波照間の畑を最初に見たときの衝撃は忘れない。
雑草も野菜もわしゃわしゃと元気に、雑然としているようで整っている。
畑全体が光って見えた。
「1000年後に伝わる絵だと思いました。畑だけやっているとそれは産業になってしまう。
産業だと後世に伝わるものが数値になってしまう。それが表現になることで残っていく。表現をしてくれる方がいると助かります。」
と言ってくださった。
なんとも励みになるありがたい言葉。
「1000年前のこの言葉も好きなんです。『遊びをせんとや生まれけむ』」
地に足ついて行きている方のリズム、言葉はじわじわと
胸の中で暖かく拡がっていく灯火になっていく。
もっと遊ぼう。
「遊んでちゃいけない」というアンカーがまだまだ自分の中に残っていることにも氣付かされた。
教育の中で埋め込まれたたくさんのアンカーに氣付き、一つ一つ外していくこと。
結局、自分を許せていないのは自分自身なんだなぁと思う日々。
畑にいる間にすっかり陽も落ち、あやふふぁみ(太陽が沈んだ後の光と闇の交わり)な頃、
続々と畑に向かう軽トラが行き交っている。
僕もKさんに別れを告げ、ひと泳ぎに海へと向かった。
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