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「しょうがい」、多様性について

「病について」の話の続き。

病は治ることもある。完治はせずとも小康状態でいけることもある。
一方で、症状がなくならないような、機能自体は改善しないような状態もある。
それは一般的には「しょうがい」と言われる状況だ。

たとえば、手足が不自由だったりする。
脳の機能が(内因的にしろ外因的にしろ)ダメージを受けて、現実をうまく認識できなくなることもある。

それらがあったとき、その人の能力は「ふつう」と呼ばれるレベルまで改善はしない。
けどね、なにをもって「ふつう」なのか、という話だよね。

だってメガネって、「ふつう」かな?まあ、いまならそうだね。けどメガネがない時代に視力が悪い人はどう「ふつう」にものを見ることができていたんだろうか?
足が悪くて歩けないと、一人で外出はできないのかな?けど、車いすでもすいすい進めるように道やお店が整備されていたら?
あなただって、エレベーターがないのに10階まで昇らなきゃいけないとしたらどうする?
いつもふつうに会話でコミュニケーションをとっているけど、あなたが手話でしかコミュニケーションできない世界に行ったら、困るんじゃないかな?

結局、「しょうがい」は道具やシステムなどの環境との兼ね合いで変わるものなんだ。いま当たり前とされる状況に適応できなければ「しょうがい」と言われるけど、それはあくまでもいま現在の状態像にすぎないってこと。
本質的な問題がある場所はまわりとの軋轢で生まれる「生きにくさ」なんだから。

だとしたら、脳機能の問題から生きにくさを感じている人たち、もしくはその人たちの言動を困ると感じている「ふつう」の人たちについても、環境やあるべき姿のイメージを変えることで、みんなが生きやすくなると思うんだ。

そもそも、「しょうがい」というレッテルを貼られていなくたって、この世は往々にして生きにくくはないかな?あなたがいま少しでも生きにくさを感じているのだとしたら、それを拡大して困っている人の気持ちを想像してくれるといいと思うよ。

まあ、治せるものであればそのための努力してもいいし、いろんな経験を積み重ねていくことも大事だ。
だけど「苦手なこと」で話したように、人それぞれ能力って違うものだから。
「しょうがい」だって、いっしょだと思う。
苦手なことがあれば、無理にそれを極める必要なんてない。

というか、できるとかできないとかで人をラベリングしないようにしたい。と、自分に言い聞かせてみた。
そうやってみんなが生活していけると、「多様性」「ダイバーシティ」という言葉も現実味を帯びてくるんだろう、と。

ぼくとしてはインターネット、特に制約のないSNSが広がったことで、特定層で多様性を許容できない偏屈じじいがたむろするムラみたいなものが出来上がっているように感じている。
理論的に批判をしているつもりで、その実ただ個人的な感情をぶつけるだけの誹謗中傷をしている人が多いよね。

あなたが大きくなる頃にどうなるかはわからないんだけど、いまはそんな状況だから、多様性が根付くためにルールづくりなどの交通整理がいる段階かもしれないね。
その具体案をぼくはまだ持っていないんだけど、もしかしたらなんでもごちゃ混ぜにするんじゃなくて、自分の居場所は特定のところにちゃんと持っておいて、そこから自分とは違う世界を眺めて「よしよし」ってしてあげられる懐の深さを身につけるべきなのかもしれない、といまは思っています。

能力で人をはからず、違いを認めること。
自分とは違う考え、見た目、その他すべての現象を受け止められるだけの懐の深さを成長するにつれて身につけていってくれたら嬉しいな。
そのためには、まずあなた自身が地に足のついた場所を見つけることが必要だね。

それと、小さい頃からいろんなことに触れながら、それを批判したり判断したりしないようにするといいかな。

人はついつい目にした出来事に対して瞬発的に批評したくなるんだけど、それを抑えて、なにか言うとしてもそれは調べて論理的に判断できるようになってから、という姿勢がのぞましいね。

まあ、なかなかそれも難しいから、たまには独り言でぶつぶつ言うことで抱えているものを吐き出すのもいいと思う。
ただしそのときは、くれぐれも文字にしたり人に伝わるようなかたちにしないようにね。

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