まだまだ考えていかないと[読書日記]
相模原事件・裁判傍聴記 雨宮処凛 著 (太田出版)
今までいくつかの相模原事件に関する書物を読んできた。
そのたびに感じていた、植松への違和感。
それについて、著者のあとがきを読んで、腑に落ちる部分があった。
「何よりも人格に深みがない。少なくとも障害者のありように関して真摯に考えてきたとは到底思えないのだ。たまたま知った『気になる言葉』を拾い集め、自分流に解釈し、つなぎ合わせただけ。彼の信念や主張にはそういう子どもじみたところがある(p.222〜)」
これか!と思った。
が、しかし。
短い言葉だけで何かを理解した気になることは結局、植松がやってきたことと同じなのではないか。
上手く言葉で言い表せないことは、ある。
しかしここ最近ではそんなことは許されず、切れ味のいい、一見合理的な言葉で説明しなければならないという強迫めいた考えがあるのではないか。
そしてぼくは、そんなふうに安易に人を批判し、批判され、批判合戦が始めることが、社会に閉塞的な空気を撒き散らす元凶なのではないか、と思ってしまう。
いや、これも安易な言葉たちにすぎない。
さて、本書を読んでいて強く感じたのは、植松が「心失者」としている人々の気持ちをわかるのは、「たしかに難しいよな」と誰しもが思っていそうだ、ということだ。
しかしぼくは、「待てよ」と思う。
どれだけ重度の障害があろうと、その表情や行動、さまざまな場面での様子の比較対照、それらを専門的視点で観察すればわかるだろう、と思う。
植松は、それを言えない。
植松だけでなく、ほとんどの人がそのことを知らない。
けどさ、障害の有無に関わらず、他者と関わることって、そういうことじゃない?
言語による説明、合理的な思考だけじゃない感覚的なもの、いや、それすらも突き詰めれば言語化できるかもしれないが、少なくとも端的な短い言葉では難しいもの。
それらにより人のことを知ることができ、安易に否定することなく「多様性」が認められ、「共生社会」が実現できるのではないか。
それには、長考が必要だし、決めつけずに見つめ続けることが必要だ。
(「多様性」「共生社会」の必要性については、ここでは論じない。)
我々は、その忍耐力を忘れてないか?
猶予を、ゆとりを、遊びを、忘れてないか?
一方で、障害福祉業界は概ね人材不足だ。
だから未経験でも、無知でも雇う。
そしてブラック的な会社ほど、研修の機会を設けることもできず、しかもブラックであればあるほど、そこでの支援は専門的視座からはかけ離れている。
そこで無知のまま働く人は、障害を持って生きる人のことをどう理解するのだろう?
そして、「自分は正しい」と思いたいやつほど、専門的知見から離れたまま間違った解釈を沈殿させていく。
その結果生まれたのが、植松なのだろう。
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