恐怖と生きるために[読書日記]

くもをさがす 西加奈子 (川手書房新社)

先日、自転車で転倒して怪我をした。怪我自体は擦り傷と打身程度だったが、一歩間違えたら車に轢かれていたと思う。
そういえば、夜に自転車で走っていて転倒し、家に帰って鏡を見ると、顔面が血まみれだったこともある。
そのときの途中の記憶は、あまりない。
今思うと、死んでいてもおかしくなかった。そんな出来事を思い出すたび、恐怖がぬらっとすり抜けていく。
ふと、いつ事故にあって死んでもおかしくないという実感が湧いてくる。
そうして、支えてくれた人がいたからなんとか生きていられたのだとも思う。

このように人は病に患ったり死を意識したりすると、生の解像度が増す。
こんな一文を書いたところで、それがいくら事実だったとしても、読み手には響かないだろう。
このエッセイはそんな概念的な話とは違う。

著者の過酷な体験が、語られる。感じられた恐怖とともに。しかしそこには優しさも滲み出している。その優しさのなかには、ユーモアも、鋭く刺すような視点もある。「自分は弱いなあ」と感じる著者だからこそ書ける文章だ。
しかしそれでも、あまりにも過酷な経験だ。にもかかわらず、いや、だからこそ読んでいてあたたかみがじわりと広がっていった。

自分の身体や心の、自己の所在について、わからなくなった経験も書かれていた。そんなふうに一歩引いたところから自分に身体や心に起こることを見ている自己がいる、という感覚は体験したことがある人も多いだろう。病などで身体が侵されたり、心が壊されたりすると、自己の所在がわからなくなる、もしかしたら自己がどこかに行ってしまうのかもしれない。

そのようなとき、では自己はどこにあるのか。
著者は病名を告げられたときに解離していた自己を、何度も名乗らされた手術先の病院で取り戻した。医療関係者に「つっこむ」ことによって。
そうやって、人は自分らしくいるときに心と身体と自己が一致できるのかもしれない。
著者のように自然体で「つっこむ」ことや、書くことによって、自己を取り戻せるのかもしれない。

本書には社会へのまなざしも書かれている。ところどころ日記で社会で起きた事件が記されていたり、日本とカナダの文化の違いも実体験をもって書かれている。
文化や風土は、そこに住んでいる自己とは切り離せないものだ。
暮らすことの切実さ、暮らすための戦いのようなものがあるのだ。そんな、日本でのうのうと暮らしている自分には気づけないことにも、気づかせてもらえた。

そしてそのような社会や制度だけでなく、人が人を人として尊重すべきということの視点を、著者はところどころで語っている。自分の居場所を守るために他者を尊重できなくなる現象を感じていたり、カナダには「愛」があって日本には「情」があるとも述べている。
どっちが良いとかではないと思う。けど、いずれにせよ、人々から余裕がなくなってしまうことが怖い。

そのような社会で経験したネガティヴな出来事を、人は無くすことはできない。それを抱えながら、どう生きていくかしか選択肢はない。
原因を求めがちだが、明確な因果関係があるわけではないことも多い。
そして、恐怖は無くせない。
しかし本書は、それでもいいのだということを伝えてくれる。
「自分の恐怖を、誰かのものを比較する必要はない。全くない。」(p.231)と。

もしこの先、自転車で転ぶよりももっと大きな死を感じるような恐怖がやってきたとしても、本書を読んだ経験がそっと姿を現してくれると良いな、と思う。
そのときぼくはきっと、いつもさらっと自然体で支えてくれている人々を思い出し、勇気づけられるのだろうと思う。
著者が「くも」を見つけたときのように。

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