だから岩手へ行く
10年前、僕はスポーツ部の高校野球キャップで、3月11日は夕方から履正社を取材する予定だった。
大阪・中之島の本社で選手のアンケートを読んでいたら、地震速報。しばらくして、揺れた。ゆら~、ゆら~。まるで波に乗ってるかのように、大きく、長く、ゆっくりと。不気味な揺れだった。
本社のすぐ隣は阪神高速だったので、トレーラーのような大きな車が通ると、たまに揺れることはあった。でも、それとはまったく違う。
何というか、波長が長い。「これ、いまテレビでやってる地震?」。同僚とそんな話をしながら、嫌な予感がした。東北の地震を、大阪で感じることってあるの?もし、テレビが伝えている地震だとしたら、むちゃくちゃ大きい地震なんじゃないか、と。
気になって、岩手の高校の野球部監督に電話した。なかなかつながらなかったが、やっと出ると、元気そうな声で「いやー、立ってられないくらい揺れたよ」。青森、宮城、と知り合いの監督や部長先生に電話をかけ続けた。無事を確認して話し込んでいると、社会部が騒がしい。ふとテレビに目を移す。今までに見たことのない映像が流れていた。
テレビは「津波」って言っていた。だけど、それは僕が想像していた津波とはまったく違った。
僕が思い描いていた津波は葛飾北斎の浮世絵のような、いきり立った波だったのに、テレビに映っているその「津波」と呼ばれるものは、アメーバのように田んぼを浸食し、風呂水が湯船からあふれるように防波堤をたぷんと超えていた。
何度か映像が切り替わって、「あっ」と息をのんだ。
ここ、行ったことがある。釜石だ。
僕は2008年の秋から岩手に通うようになっていた。菊地雄星というとんでもない投手がいたからだ。いろんな球場に雄星を見に行くたびに、岩手にはいつのまにか土地勘があった。
次に映った街並みも、知っていた。宮古だ。
雄星がいた花巻東が2009年の選抜大会で準優勝した後、春の岩手県大会の取材で宮古に行った。海沿いの、新しい球場だった。5、6メートルはある防波堤によじ登って、盛岡で買って持って行っていた「福田パン」を食べた。いま、テレビに映っているのは、穏やかだったあの海なのか?
真っ黒い水が、防波堤を超えた。
テレビが伝えている現実に、思考が追いつかなかった。水が黒い。海って黒かったか? 津波って、これ? 野球場はどうなった? 生まれて初めてホヤを食べたお寿司屋さんは、港が近かったぞ。もう街が黒い水で埋め尽くされる。どうしよう。どうしよう。履正社へ取材に行くことは忘れていた。
いてもたってもいられなくなって、社会部の取材班に加わった。地図を開いて、三陸沿岸の電話番号がわかったところにかたっぱしから電話をかける。ツイッター、というものにリアルタイムで書き込んでいる人がいるらしいと知ると、おそるおそる、DMを送ってみた。いま、どんな状況ですか?と。
何人か返事をくれた。車に乗ったまま流されたけど、運良く高台へ打ち上げられた人、倉庫の2階へ近所の人と避難した人。みんな、必死で今の状況を伝えてくれた。でも、僕は無力だった。聞くことしかできない。どうか、ご無事で。ただ祈るだけの自分が情けなかった。
選抜大会が終わった後、僕は震災取材班に志願して入り、岩手へ行った。盛岡や遠野を拠点に、沿岸へと通う。避難所はもちろん、高校の野球部も回った。高田、大船渡、釜石、宮古、久慈。むかし、教科書でみた田老の巨大な防潮堤は、無残な姿をさらしていた。
大船渡では、盛川沿いの桜並木が満開になっていた。津波で土はえぐられ、根っこが丸見えになっているのに、満開だった。恐ろしいほど美しかった。その生命力に、思わず泣いた。いままでみた桜で、一番きれいな桜だった。
およそ2週間休みなく取材して、取材を交代するため大阪に帰る日が来た。取材でお世話になった沿岸の高校を、あいさつにまわった。大船渡の部長先生がぽつりと言った。
「お願いがあります。また、岩手に来てね。物見遊山でいいから、岩手に来てね」
いままでの記者人生で、何百人、何千人と取材した。オリンピックの金メダリストもいれば、メジャーリーガーもいた。だけど、どんなスターの言葉より、この部長先生の一言が僕の記憶の真ん中に、ずっとある。
だから僕は毎年、岩手に行っている。おそらく職場では、なんで僕が岩手にこだわるのか、何かとつけて岩手へ行きたがるのか、不思議に思っている人も多いと思う。たいした原稿も出してないのに。でも、僕は岩手に行く。2021年も岩手に行く。取材じゃなくても、岩手に行く。
絶対に行く。行き続ける。
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